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釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#8. 越冬闘争1日目~釜ヶ崎の年越し~

越冬闘争 釜ヶ崎

2016年12月30日。SNSには友人の「一年の振り返り」投稿が散見され、テレビは特番が多くなり、世間はすっかり年末モードだ。そんな中、私は越冬闘争に参加するため一人釜ヶ崎へ向かった。いよいよ、釜ヶ崎の年越しが始まる。

年末の釜ヶ崎

いつものように動物園前駅で下車し、釜ヶ崎の道を歩いていると、早速あることに気がついた。普段に比べて、通行人が多いのだ。釜ヶ崎では、夕方以降になると活気が出てくるのが通常だ。しかし、今日は日中なら閉まっているはずの居酒屋やカラオケバーも午後には既に開店し、お客さんもかなり入っていた(利用客がどういう人かは分からない)。お店だけではなく、越冬闘争を取材しに来たテレビ番組のスタッフや、多くの支援組織の人々が行き交い、年末の釜ヶ崎は活気づいていた。支援する人、支援される人、その様子を見にくる人、仲間との忘年会のひと時を楽しむ人・・・色んな立場の人が混ざり合い、釜ヶ崎には独特の年末の雰囲気が漂っていた。

越冬闘争の舞台、三角公園

そんな町の様子に驚きつつも、今回私が向かったのは、釜ヶ崎の越冬闘争の舞台となる三角公園だ。(西成区労働福祉センターが作った地図に、赤色で加筆した部分。)

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三角公園は、私が最初に行った四角公園や西成警察署過去記事からほど近い場所にある。この三角公園で、越冬闘争の中でも「越冬まつり」と呼ばれるイベントが3日まで開催されるのだ。

初日は午後4時からの開始なので、その時間に合わせて行くと、既に100人くらい人が集まっていた。まずは、私は本部にいる越冬闘争の実行委員長のところに挨拶しに向かった。実行委員長は優しそうな60代くらいの男性で、快く迎えてくれた。そして、私が炊き出しなどを手伝いたい旨を伝えると、炊き出し班の責任者が近くにいたので紹介してくれた。

思いがけないインタビュー

実行委員長から紹介された炊き出し班の責任者Y氏は、大柄な50代後半の男性だった。前回の記事では、実行委員会のミーティングにはベテラン勢が沢山いたと書いたが、彼らの中でも経験豊富な印象で、私のすぐ横に座っていたのでよく覚えていた。私も自己紹介すると「あぁ、あの子か。」とすぐに分かってくれたようだ。

本部のある三角公園と、炊き出しの準備をする施設とは隣接している。その施設まで二人で歩きながら、私は夏から釜ヶ崎に通っていることや、越冬闘争に参加する想いを伝えた。そうしていると、あっという間に施設に着いた。この施設は「禁酒の館」と呼ばれ、日中仕事にあぶれた労働者の居場所になっている。ここには酔った状態で入らない・酒を持ち込まないというルールがあるため、この名称がついたようだ。

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施設の一階では「学生企画ネットワーク」と呼ばれる学生団体の人たちが30人ほど集まっていた。どうやら、今日の炊き出しの準備はほとんど終わってしまったらしい。

しかし、私は事前ミーティングの時からY氏と話してみたいと思っていたので、そのまま部屋の中で釜ヶ崎に関する質問を何個か聞いてみた。そうすると「立ち話もアレだし、座るか。」と言われ、学生たちが談笑する部屋の中で、二人座って話をすることになった。

インタビュー始まる

色々お話を聞かせていただくにあたり、私はブログを書いていること、もしネットに載せない方が良いことがあれば指摘してもらいたいことを正直に伝えた。話の内容を載せることを快諾してもらい、さらに「顔出してもええで」と言われたが、今回は顔は出さずにおきたい。

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上記でも少し触れたが、彼は大柄で恰幅がよく、とても50代後半とは思えない程エネルギーに溢れた方だ。諭すような力強い口調で話し、体育会系の部活の監督を思わせるような雰囲気がある。

まず、改めてどんな経歴の方なのかを尋ねた。すると、とんでもないことが分かった。Yさんは釜ヶ崎日雇労働組合」の代表だったのだ。「えええええ!!!!!」と、これまで釜ヶ崎のことを本で学んでいた私は絶叫してしまった。(同時に、周りの学生に一斉に見られた。)

釜ヶ崎日雇労働組合」(略称:釜日労)とは、1980年から結成された労働組合で、釜ヶ崎界隈では知らない者がいないほど有名な組織だ。これまで釜ヶ崎の日雇い労働者たちの雇用条件の改善のための団体交渉や、賃上げ闘争を行ってきた。二代目の委員長だった山田實氏は、釜ヶ崎の超重要人物である。そして、彼は三代目の委員長らしい。

一日目の最初に出会った人物が釜日労の現代表とは・・・私はマサラタウンから出発して、いきなり四天王の一人と出くわしたような気分になった。釜日労の代表が、炊き出し班の責任者をしている事実にも驚きつつ、Y氏とのやり取りが始まった。

彼が釜ヶ崎に来た理由

そもそも、どうして彼は釜ヶ崎に来るようになったのか聞いてみた。Y氏によると、彼が大学を出たのは70年代後半のことで、まだまだ労働運動が盛んな頃だった。彼は労働者の立場に立って労働運動をしたいという気持ちが強く、当初は東京の山谷(以前は山谷にドヤ街があった)に行っていたらしい。そして、そのツテで釜ヶ崎へとやってきた。80年代の釜ヶ崎は活気があって、青年だったY氏には魅力的な街と映ったそうだ。そうして釜ヶ崎に入ったY氏は、日雇い労働者として仕事を始め、釜日労に参加するようになる。今でも釜日労のメンバーは全員日雇い労働経験者らしく、彼はそれを誇りに思っているようだった。

初めて知る釜ヶ崎の「今」

労働者事情に詳しい彼に、今の釜ヶ崎の状況を聞いてみた。釜ヶ崎周辺では、現在2万3千人が生活しており、そのうち生活保護受給者は8千人を切っているらしい。以前はピーク時で1万人弱の生活保護受給者がいたが、ここ3年で激減している。高齢者が多いため、亡くなるケースが多発しているそうだ。そして、釜ヶ崎では人口に関する様々な調査が行われ、例えば「10年以内に流入してきた人々が、全住民の半分以上を占める。」といった調査結果が出ているが、実はその数にはバラつきがある。それは、労働者が釜ヶ崎を"拠点"にしているに過ぎず、住民登録をしていないため、行政が人口の状況を掴みにくいのだ。

そして、今は日雇い労働者をめぐる雇用形態もだいぶ変わっているらしい。従来、釜ヶ崎では日雇い労働者は「あいりん総合センター」という施設へ朝5時頃に向かい、手配師と呼ばれる仲介業者と直接やり取りをして仕事を決めていた。そうした昔ながらの"人夫出し"が減り、現在では仲介業者から労働者へ直接電話がかけられるようだ。日雇い労働者でも、皆携帯電話を持っており、それが無ければ仕事にならないようになっている。つまり、釜ヶ崎日雇い労働者は「派遣」へと雇用形態が変わっているのだ。これでは、派遣として雇われてネカフェで寝泊まりする若者と、釜ヶ崎の労働者はほとんど変わらないのではないか?と思わずにいられない。

Y氏からは、上記のこと以外にも、本当に沢山のことを教えていただいた。一時間半ほど話したが、途中で呼ばれて席を立っても、必ずすぐに戻ってきてくれた。真摯に向き合って話してくれる姿勢が、とても嬉しかった。

再び、三角公園

時間が午後6時になると、炊き出しが始まるので全員で移動した。三角公園へ戻ると、既に300人くらいの人が集まっていた。これでも、だいぶ例年に比べたら少ないらしい。昨日の時点で、釜ヶ崎での野宿者は約500人だったそうだ。

三角公園のステージでは、合唱が行われ、多くの人が耳を澄ましていた。合唱しているのは釜ヶ崎芸術大学の方々で、一人一人がとても生き生きしていた。

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三角公園のたき火の周りに集まった人々は、ステージへ拍手を送りつつ、配膳のための列を作っていた。そうして炊き出しの用意ができると、どんどん配膳されていった。今日のメニューは、シチュー丼だ。

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配膳する人手は足りているらしく、私はY氏の隣で配膳の様子を見守っていた。それにしても、本当に沢山作ってある。Y氏に「何食分作ってあるんですか?」と聞くと、『あの寸胴一つで、大きなお玉で500回すくえる。だからお玉一杯を一人分だとすると、寸胴2つで1000人分だな。盛り方によっては数百人分になるけどな。お代わりもできるように、多めに作ってあるんだ。』と答えが返ってきた。千人分!!と驚いていると、Y氏は

やっぱりさ、みんな普段腹空かせてたりするから、年末年始くらい腹いっぱいに食わせてやりたいよな。』と何の屈託もない笑顔で言った。私には、その時の笑顔が忘れられない。自身も元日雇い労働者で空腹を経験したのか、それとも腹を空かせた友人を沢山見てきたのか・・・・その一言は、彼の社会的立場を超えた、一人の男性としての優しさが溢れた言葉のように感じた。そうして、配膳をもらう人々の顔をじっと見ると、皆心なしかご飯を受け取ると嬉しそうだった。本当に大切な、人々の温かい部分は、よく見つめないと見えて来ない。しかし、それこそが私がここ釜ヶ崎で見つけたかったものなのかもしれない。

 

今日もこれから釜ヶ崎に行きます、次回の更新もお楽しみに。

#7. 越冬闘争前夜~釜ヶ崎の年越し~

釜ヶ崎 越冬闘争

このブログでは、これまで夏にあった出来事を書いてきた。でも今回は、本日12月29日から一週間、リアルタイムで釜ヶ崎のことを書いてゆきたい。私が年末年始に新潟の実家に帰らないなんて、人生で初めてのことだ。そうまでして、どうして釜ヶ崎に行くのか?

それは、年に一度の大イベントである越冬闘争が始まるからだ。

闘争前夜である今日は、越冬闘争とは何か、そして先週行われた越冬闘争のミーティングに参加した時の様子について書きたいと思う。

命がけの闘い、越冬闘争

以前の記事#2 西成・釜ヶ崎・あいりん地区、何が違うのか? - 釜ヶ崎と女子大生。でも紹介したが、釜ヶ崎は日雇い労働者の街として長く知られてきた。日雇い労働というのは、その名の通り、その日に稼いだお金で食べ、簡易な宿に泊まる暮らしをするのが一般的だ。したがって、年末年始は雇い主の会社が休むため、仕事が無くなり、宿に泊まれなくなる。普段は、仕事にあぶれた人は行政が運営する「シェルター」と呼ばれる施設で寝泊まりできるのだが、年末年始はこのシェルターも閉まってしまうのだ。そうすると、日雇い労働者は、路上生活をしなければならない。

日本の高度経済成長期を支えた日雇い労働者たちも、もうだいぶ高齢化している。彼らが寒空の下で一週間も野宿すると、命を落とす危険性があるのは当然だ。実際、釜ヶ崎での死亡率は年末年始が最も高い。この状況を改善するために、約50年にわたり越冬闘争が行われてきた。

越冬闘争では、炊き出しは勿論のこと、三角公園にあるステージ(公園にはステージがある!)でライブが行われたり、夜には夜回りが行われる。また、社会医療センターという建物の軒下では、「集団野営」と呼ばれる集団野宿が行われる。多くの人が一緒に布団を敷き、徹夜で見張り番をしながら夜を過ごすのだ。こうした活動全てをひっくるめて、越冬闘争と呼ばれる。

そして、この越冬闘争のスローガンは「ひとりの餓死者、凍死者も出さない」だ。この言葉から、釜ヶ崎の日雇い労働者にとって、いかに年末年始を生き抜くことがシビアか伝わってくると思う。

なぜ、闘争なのか?

この釜ヶ崎越冬闘争は、今回で47回目を迎える。本当に長い歴史を持つわけだが、第一回目は1970年らしい。私の以前の記事に書いたが、70年代というのは釜ヶ崎のおっちゃんたちが行政や警察と闘っていた時代だ。

しかし、彼らが闘う相手は他にもいた。第1回目の闘争を開催する時分には、釜ヶ崎の公園は暴力団などが取り仕切っていたのだが、労働者や実行委員たちは実力で公園を占拠しようとした。その際、暴力団と抗争があり、さらに駆けつけた警察や機動隊とも激しい闘いが繰り広げられた。まさに、当初は「闘争」だったのである。(詳しくは、『釜ヶ崎のススメ』を読んでもらいたい。)

越冬闘争委員会のミーティングへ

この越冬闘争は以前から書籍を読んで知っていたが、釜ヶ崎に詳しい知人H氏から「越冬闘争を知りたいなら、実行委員会のミーティングがあるから参加させてもらったら?」と紹介された。教えて貰ったのが12月に入ってからだったので、私は越冬闘争に向けた最後の全体会議にだけ、ギリギリで参加することができた。

最後の全体会議は12月20日の夜7時から。会場は釜ヶ崎のど真ん中にある「ふるさとの家」というキリスト教系の施設だった。

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古びた建物の一階には、すでに沢山の椅子が並べられ、開始時刻が近づくと人が次から次へと入ってきた。最終的には、30人くらいの人が集まっただろうか。参加者の多くは男性で、女性も何人か参加していた。大体40~50代くらいの人が多かったように思うが、ほとんどの方が越冬闘争に何年も関わってきたベテランの雰囲気を醸し出していた。この時点で、私が完全にアウェーな状況だったのは言うまでもない。

司会の男性が、越冬闘争における分担などについて、粛々と進めていく。そうすると、途中で新参者の私に、自己紹介をするよう言われた。「ついにこの時が来たか・・・」と観念し、立ち上がって30人のベテラン勢に対して挨拶をした。多くの鋭い視線を感じる・・・まるで、面接官30人が控える部屋に一人で面接を受けに入った気分だ。緊張で膝は震え、噛みまくっていたことは覚えているが、とにかく生きた心地がしなかった。

越冬闘争は、お祭り?

緊張しっぱなしの私をよそに、会議は続いてゆく。どうやら越冬闘争の中でも、三角公園とその周辺で行われるイベントを「越冬まつり」と呼ぶらしい。年末年始の釜ヶ崎は、祭りなのか?!と驚いてスケジュール表を見ると、確かにステージは沢山の出演者で埋まっており、祭りと言っても過言ではない。

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2日は、SHINGO★西成まで来るのか!(彼は釜ヶ崎出身の、全国的に有名なラッパーだ。)とテンションが上がっていると、会議の最後に、ある女性の話が出た。

日雇い労働者のアイドル・曽野恵子

会議の終盤に議題に上がったのは、「曽野恵子」という女性の出演についてだった。

彼女は何十年にも渡って、釜ヶ崎の日雇い労働者たちを支援してきた演歌歌手の方らしい。以前は三角公園のステージで、歌も披露していたようだ。彼女の代表曲の一つが、釜ヶ崎人情』Youtubeの動画はこちら。越冬闘争で歌っている様子です。)。この歌詞を、以下に少し紹介する。

   "身の上話にオチがつき ここまで落ちたというけれど

   根性まる出し まる裸  義理も人情も ドヤもある

   ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎"

この歌詞と彼女の存在に、日雇い労働者の方がどれ程勇気づけられたかと思うと、胸がいっぱいになる。そんな彼女が会いに来るのを、日雇い労働者の方々もずっと楽しみにしているらしい。彼らからは、「恵子は来ないのか?恵子に会いたいなぁ。」という声がよく聞かれるそうだ。彼らにとって、彼女は大切なアイドルなのだと思った。

しかし、その曽野恵子さんが、現在重い病に臥せっているらしい。その彼女の出演について、色々な議論がなされた。意見が交わされる間にも、会議中には紙袋が回され、彼女へのカンパが行われた。私のところに回ってくる頃には、沢山寄付されていた。実行委員会の方々にとっても、きっと想い入れのある方なのだろう。

越冬闘争にむけて

上記の実行委員会のミーティングに参加し、越冬闘争が積み重ねてきた歴史と、それを支える人々の想いの深さを、少しでも知ることができたと思う。この越冬闘争には、宗教・政治が密接に絡む複雑な一面もあるが、私はできるだけ中立な視点で物事を見て、このブログを書くつもりだ。次回の更新も、お楽しみに。