釜ヶ崎と女子大生。

釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#9. 越冬闘争2日目~釜ヶ崎の年越し~

2016年12月31日。ついに今年最後の日がやってきた。前日のブログを書くのに午前中から3~4時間かけてしまったので、少し出遅れて釜ヶ崎へやってきた。私がこの日三角公園へついたのは、午後4時頃だった。

大晦日の釜ヶ崎

午後4時頃は、まだそこまで人が多くなかった。ステージでは相変わらず出し物が続いているが、集まった人は100人にも満たない。本部にいた実行委員会の方に「お疲れ様です。今日は人が少ないですね。」と話しかけると、『みんな炊き出しの時間に合わせて来るからなあ、でもあと2時間くらいしたら沢山くるで。30日は炊き出しがあるか分からなくても、31日なら確実に炊き出ししてると皆知ってるから、今夜は多いで。』と言われた。なるほど、そういう共通認識があるのか。

炊き出し班の準備もだいぶ終わりかけているらしく、私は三角公園の中を歩きまわることにした。実行委員会の方やボランティアの学生と話すのは楽だけども、やはりおっちゃん達と話さないと意味が無い。私の方から勇気を出して話しかけると、嬉しそうにする人や恥ずかしがる人もいれば、無視する人や上手く会話ができない人もいる。普段若い女性と関わる機会が無い彼らからすると、やはり戸惑ってしまうのだろう。なかなか難しいな・・・と思っていると、後ろからニッコニコに笑うおっちゃんが話しかけてきた。

おっちゃんと写真館

話しかけてくれたおっちゃんは、背が私よりだいぶ低く(150㎝くらい)、既に酔っぱらってご機嫌だった。『ねぇちゃん、べっぴんさんやなぁ。一緒に写真撮ろうや。』とダミ声で話しかけてくるおっちゃんは、笑い皺が似合う方だった。おっちゃんに連れて行かれたのは、三角公園内にある写真館だった。

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ベニヤ板で作られた仮設の写真館の中には、ここで撮られたおっちゃん達のモノクロ写真が壁一面に貼られていた。どの写真も、本当におっちゃんたちが生き生きとしていた。こんなにも、彼らは素晴らしい被写体になるのかと、心の底から感動した。一人一人の写し方から、写真家の愛情が伝わってくる。

写真に心を奪われていると、おっちゃんが早く一緒に写真を撮るよう急かしてきた。撮影中に周りで見ていた人がふざけて『おぅ、ええなぁ!冥途の土産になるなぁ!』と言うと、隣にいたおっちゃんは『ほんまやで』と、ガハハと笑っていた。撮り終わった写真の現像中に、おっちゃんは『皆も一緒に撮ってもらえ!べっぴんさんやぞ!』と周りに宣伝していった。なんだかマスコットみたいになってるぞ・・・と思っていたが、他の人は恥ずかしがって遠慮したので、撮影会には至らなかった。

このおっちゃんにブログ掲載の許可を取るのを忘れていたので、出来上がった写真をお見せすることはできないが、別のおっちゃんが撮影する様子を撮らせてくれた。実際の雰囲気は、こんな感じだ。

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この被写体の方は以前にも会ったことがあり、ブログ掲載を快諾してくれた。(念のため顔にはモザイクをかけています。)彼は叩き上げの日雇い労働者ではないが、釜ヶ崎には珍しくお洒落心のある、おちゃめで愛嬌のある人だ。

なぜ釜ヶ崎で写真を撮るのか

この撮影が終わった後、写真館で撮っていた方に話を聞いてみた。どうやらこの写真館は、5~6年前に始まり、現在写真を2人交代で撮影しているらしい。この壁一面の写真を撮ったのは別の人物で、デジカメで撮った写真をモノクロにしているそうだ。今日撮っていた方は『でもね、釜ヶ崎では、昔は労働者の写真を撮ること自体できなかったんだよ。こうして写真を撮れるようになったことが、凄いことなの。自分たちも、最初は毛嫌いされるかなぁと思って始めたんだけど、これが意外と皆撮ってもらいたがるんだよね。』と話してくれた。この写真は、証明写真の意味もあるが、それ以上に遺影として撮られているらしい。さっきのおっちゃんが「冥途の土産になる」と言っていたのも、あながち間違いでは無いのだ。ここ釜ヶ崎でも高齢化が進み、死を意識せざるを得ない。そうした釜ヶ崎の現状を反映して、写真館は建っていることが分かった。

*翌日、壁一面の写真を撮っている男性とお話しした。壁の写真を撮ってブログに載せて良いかとたずねると、色々な事情でネット上に写真が出ない方が良い方もいるということだったので、ここには写真は出さない。あまりに素晴らしい写真の数々だったので、個展をしないのかときくと、同様の理由で釜ヶ崎の写真展はしないそうだ。なぜ写真を撮るのか?という質問に対しては、とても一言では表すことのできない想いが彼にはあるようで、詳しくは聞けなかった。

大晦日の炊き出し

写真館を出る頃には、三角公園には沢山の人が集まっていた。ざっと400~500人はいるだろうか。多くの人々が炊き出しの列に並び、食事を貰った後は、身を寄せ合うようにして立ちながら食べていた。ドラム缶には、昼間から絶え間なく薪がくべられ、明るい炎が辺りを照らす。時折舞い上がる火の粉を避けつつも、ドラム缶の周りには人が円を描くように佇んでいる。

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こんな炎を見るなんて、何年ぶりだろう・・・。炎の周りを囲み、貰った炊き出しを食べるおっちゃんの遥か向こう側には、あべのハルカスが見える。

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煌々と光る高層ビルを、おっちゃん越しに見ていると『あぁ、あのビルにいる人は別世界の人だな・・・』と思えてきた。すると、自分自身が、まるで中世のヨーロッパの城を眺める平民と同じ目線であるかのような錯覚に陥った。遠い昔の時代にも、こうして火を囲みながらご飯を食べ、遥か彼方の絢爛豪華な城を眺めては、別世界のように感じていた人がいたのではないか。中世も、現代も、何も変わらないじゃないか。中世と現代が被る、そんな衝撃が私の体を駆け巡ると、この三角公園からあべのハルカスが見えて良かったな、と感謝にも似た気持ちが湧いてきた。

2016年最後の夕食

その後少し実行委員会の方の手伝いをした後に、炊き出しを準備する施設に戻ると、余ったご飯を学生ボランティアの人たちが食べていた。他の人に薦められるまま、私もいただくことにした。

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2016年最後のご飯が、釜ヶ崎の炊き出しの残飯になるとは、去年は思いもしなかったなぁ・・・・としみじみとした。今日のメニューは、赤魚の煮つけ丼と、卵スープ。有難く、有難く、いただいた。

食後は夜回りパトロールに出たのだが、その話はまた今度にする。パトロール後は、釜ヶ崎に住む知人と近くの飲み屋へ向かい、常連さんたちとカウントダウンをした。気持ち良く酔った後は、知人の空き部屋に泊まらせてもらい、釜ヶ崎の大晦日は終わりを告げた。

 

次の更新も、お楽しみに。

#8. 越冬闘争1日目~釜ヶ崎の年越し~

2016年12月30日。SNSには友人の「一年の振り返り」投稿が散見され、テレビは特番が多くなり、世間はすっかり年末モードだ。そんな中、私は越冬闘争に参加するため一人釜ヶ崎へ向かった。いよいよ、釜ヶ崎の年越しが始まる。

年末の釜ヶ崎

いつものように動物園前駅で下車し、釜ヶ崎の道を歩いていると、早速あることに気がついた。普段に比べて、通行人が多いのだ。釜ヶ崎では、夕方以降になると活気が出てくるのが通常だ。しかし、今日は日中なら閉まっているはずの居酒屋やカラオケバーも午後には既に開店し、お客さんもかなり入っていた(利用客がどういう人かは分からない)。お店だけではなく、越冬闘争を取材しに来たテレビ番組のスタッフや、多くの支援組織の人々が行き交い、年末の釜ヶ崎は活気づいていた。支援する人、支援される人、その様子を見にくる人、仲間との忘年会のひと時を楽しむ人・・・色んな立場の人が混ざり合い、釜ヶ崎には独特の年末の雰囲気が漂っていた。

越冬闘争の舞台、三角公園

そんな町の様子に驚きつつも、今回私が向かったのは、釜ヶ崎の越冬闘争の舞台となる三角公園だ。(西成区労働福祉センターが作った地図に、赤色で加筆した部分。)

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三角公園は、私が最初に行った四角公園や西成警察署過去記事からほど近い場所にある。この三角公園で、越冬闘争の中でも「越冬まつり」と呼ばれるイベントが3日まで開催されるのだ。

初日は午後4時からの開始なので、その時間に合わせて行くと、既に100人くらい人が集まっていた。まずは、私は本部にいる越冬闘争の実行委員長のところに挨拶しに向かった。実行委員長は優しそうな60代くらいの男性で、快く迎えてくれた。そして、私が炊き出しなどを手伝いたい旨を伝えると、炊き出し班の責任者が近くにいたので紹介してくれた。

思いがけないインタビュー

実行委員長から紹介された炊き出し班の責任者Y氏は、大柄な50代後半の男性だった。前回の記事では、実行委員会のミーティングにはベテラン勢が沢山いたと書いたが、彼らの中でも経験豊富な印象で、私のすぐ横に座っていたのでよく覚えていた。私も自己紹介すると「あぁ、あの子か。」とすぐに分かってくれたようだ。

本部のある三角公園と、炊き出しの準備をする施設とは隣接している。その施設まで二人で歩きながら、私は夏から釜ヶ崎に通っていることや、越冬闘争に参加する想いを伝えた。そうしていると、あっという間に施設に着いた。この施設は「禁酒の館」と呼ばれ、日中仕事にあぶれた労働者の居場所になっている。ここには酔った状態で入らない・酒を持ち込まないというルールがあるため、この名称がついたようだ。

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施設の一階では「学生企画ネットワーク」と呼ばれる学生団体の人たちが30人ほど集まっていた。どうやら、今日の炊き出しの準備はほとんど終わってしまったらしい。

しかし、私は事前ミーティングの時からY氏と話してみたいと思っていたので、そのまま部屋の中で釜ヶ崎に関する質問を何個か聞いてみた。そうすると「立ち話もアレだし、座るか。」と言われ、学生たちが談笑する部屋の中で、二人座って話をすることになった。

インタビュー始まる

色々お話を聞かせていただくにあたり、私はブログを書いていること、もしネットに載せない方が良いことがあれば指摘してもらいたいことを正直に伝えた。話の内容を載せることを快諾してもらい、さらに「顔出してもええで」と言われたが、今回は顔は出さずにおきたい。

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上記でも少し触れたが、彼は大柄で恰幅がよく、とても50代後半とは思えない程エネルギーに溢れた方だ。諭すような力強い口調で話し、体育会系の部活の監督を思わせるような雰囲気がある。

まず、改めてどんな経歴の方なのかを尋ねた。すると、とんでもないことが分かった。Yさんは釜ヶ崎日雇労働組合」の代表だったのだ。「えええええ!!!!!」と、これまで釜ヶ崎のことを本で学んでいた私は絶叫してしまった。(同時に、周りの学生に一斉に見られた。)

釜ヶ崎日雇労働組合」(略称:釜日労)とは、1980年から結成された労働組合で、釜ヶ崎界隈では知らない者がいないほど有名な組織だ。これまで釜ヶ崎の日雇い労働者たちの雇用条件の改善のための団体交渉や、賃上げ闘争を行ってきた。二代目の委員長だった山田實氏は、釜ヶ崎の超重要人物である。そして、彼は三代目の委員長らしい。

一日目の最初に出会った人物が釜日労の現代表とは・・・私はマサラタウンから出発して、いきなり四天王の一人と出くわしたような気分になった。釜日労の代表が、炊き出し班の責任者をしている事実にも驚きつつ、Y氏とのやり取りが始まった。

彼が釜ヶ崎に来た理由

そもそも、どうして彼は釜ヶ崎に来るようになったのか聞いてみた。Y氏によると、彼が大学を出たのは70年代後半のことで、まだまだ労働運動が盛んな頃だった。彼は労働者の立場に立って労働運動をしたいという気持ちが強く、当初は東京の山谷(以前は山谷にドヤ街があった)に行っていたらしい。そして、そのツテで釜ヶ崎へとやってきた。80年代の釜ヶ崎は活気があって、青年だったY氏には魅力的な街と映ったそうだ。そうして釜ヶ崎に入ったY氏は、日雇い労働者として仕事を始め、釜日労に参加するようになる。今でも釜日労のメンバーは全員日雇い労働経験者らしく、彼はそれを誇りに思っているようだった。

初めて知る釜ヶ崎の「今」

労働者事情に詳しい彼に、今の釜ヶ崎の状況を聞いてみた。釜ヶ崎周辺では、現在2万3千人が生活しており、そのうち生活保護受給者は8千人を切っているらしい。以前はピーク時で1万人弱の生活保護受給者がいたが、ここ3年で激減している。高齢者が多いため、亡くなるケースが多発しているそうだ。そして、釜ヶ崎では人口に関する様々な調査が行われ、例えば「10年以内に流入してきた人々が、全住民の半分以上を占める。」といった調査結果が出ているが、実はその数にはバラつきがある。それは、労働者が釜ヶ崎を"拠点"にしているに過ぎず、住民登録をしていないため、行政が人口の状況を掴みにくいのだ。

そして、今は日雇い労働者をめぐる雇用形態もだいぶ変わっているらしい。従来、釜ヶ崎では日雇い労働者は「あいりん総合センター」という施設へ朝5時頃に向かい、手配師と呼ばれる仲介業者と直接やり取りをして仕事を決めていた。そうした昔ながらの"人夫出し"が減り、現在では仲介業者から労働者へ直接電話がかけられるようだ。日雇い労働者でも、皆携帯電話を持っており、それが無ければ仕事にならないようになっている。つまり、釜ヶ崎日雇い労働者は「派遣」へと雇用形態が変わっているのだ。これでは、派遣として雇われてネカフェで寝泊まりする若者と、釜ヶ崎の労働者はほとんど変わらないのではないか?と思わずにいられない。

Y氏からは、上記のこと以外にも、本当に沢山のことを教えていただいた。一時間半ほど話したが、途中で呼ばれて席を立っても、必ずすぐに戻ってきてくれた。真摯に向き合って話してくれる姿勢が、とても嬉しかった。

再び、三角公園

時間が午後6時になると、炊き出しが始まるので全員で移動した。三角公園へ戻ると、既に300人くらいの人が集まっていた。これでも、だいぶ例年に比べたら少ないらしい。昨日の時点で、釜ヶ崎での野宿者は約500人だったそうだ。

三角公園のステージでは、合唱が行われ、多くの人が耳を澄ましていた。合唱しているのは釜ヶ崎芸術大学の方々で、一人一人がとても生き生きしていた。

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三角公園のたき火の周りに集まった人々は、ステージへ拍手を送りつつ、配膳のための列を作っていた。そうして炊き出しの用意ができると、どんどん配膳されていった。今日のメニューは、シチュー丼だ。

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配膳する人手は足りているらしく、私はY氏の隣で配膳の様子を見守っていた。それにしても、本当に沢山作ってある。Y氏に「何食分作ってあるんですか?」と聞くと、『あの寸胴一つで、大きなお玉で500回すくえる。だからお玉一杯を一人分だとすると、寸胴2つで1000人分だな。盛り方によっては数百人分になるけどな。お代わりもできるように、多めに作ってあるんだ。』と答えが返ってきた。千人分!!と驚いていると、Y氏は

やっぱりさ、みんな普段腹空かせてたりするから、年末年始くらい腹いっぱいに食わせてやりたいよな。』と何の屈託もない笑顔で言った。私には、その時の笑顔が忘れられない。自身も元日雇い労働者で空腹を経験したのか、それとも腹を空かせた友人を沢山見てきたのか・・・・その一言は、彼の社会的立場を超えた、一人の男性としての優しさが溢れた言葉のように感じた。そうして、配膳をもらう人々の顔をじっと見ると、皆心なしかご飯を受け取ると嬉しそうだった。本当に大切な、人々の温かい部分は、よく見つめないと見えて来ない。しかし、それこそが私がここ釜ヶ崎で見つけたかったものなのかもしれない。

 

今日もこれから釜ヶ崎に行きます、次回の更新もお楽しみに。