釜ヶ崎と女子大生。

釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#11. 越冬闘争4日目~釜ヶ崎の年越し~

年始からインフルエンザに罹り、更新がだいぶ遅くなってしまった。気を取り直して、書き進めてゆきたい。

2017年1月2日。この日はブログを京都で執筆してから、少し遅れて大阪へと向かった。街ゆく家族づれは、いかにも初詣に行ってきた雰囲気を漂わせている。そんな集団を横目に見ながら、私が行くのは神社ではない。そう、釜ヶ崎である。

最初は緊張していた越冬闘争も、4日目ともなるとだいぶ慣れてきた。顔見知りも増え、三角公園に至ってはホームのようにさえ思えてくる

越冬闘争の夜

ちょうど三角公園に着いたときに、炊き出しの準備が佳境を迎えていた。炊き出しの調理をする場所に行くと『あ、お疲れ様でーす。』と学生から声をかけられる。ここに馴染んできた実感を噛み締めつつ、学生たちと協力して三角公園の机を出し、配膳の準備を進める。今日は午前中に餅つき大会があったらしく、おっちゃん達がついたお餅が、粕汁の中に入れられて提供された。(お餅は写真上部の、長方形の箱にびっしり入っている。)

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かく言う私は、写真手前に写っているご飯を、ひたすら盛り続けた。ご飯の箱が背後には何箱も控えているが、盛っても盛っても終わりが無い。小学校の給食配膳の100倍くらい大変だ。明日絶対に筋肉痛になるだろうな・・・と思いつつ1時間ほど続けていると、ようやく長蛇の列も無くなり落ち着いた。ふぅ、やっと息を抜けるな・・・と思って歩くと、三角公園物凄い人の群れがあることに気づいた。それもそのはず、釜ヶ崎出身の有名アーティストがライブを始めたのだ。

釜ヶ崎を歌うラッパー「SHINGO★西成」

SHINGO★西成。彼の名前を知っている方はどのくらいいるだろうか?彼は、ここ三角公園の近くで生まれ育ち、今や日本HIPHOP界の重要人物だ。関西のラッパーの中で、5本の指には入るであろう知名度だと思う。実は、私は以前少しだけ彼と話したことがある。私が足繁く通う釜ヶ崎のカレー屋で、いつものように食べていると、男性がおもむろに入店してきた。「やたら眼光の鋭い兄ちゃんが入ってきたな・・・」と思っていたら、それがSHINGO★西成その人だったのだ。店主に言われて初めて気づいて驚いたが、話すと気さくで優しい人だったのをよく覚えている。

私は彼の書くラップの歌詞が好きだ。ちょっとここで紹介したい。

テーブルに灰皿と花1輪 今日もホンマお疲れおかえり 風吹けばカーテンと風鈴チリン ひっそり咲く黄色い花道に 1+1は2のはずやのに 2じゃないときもあるんやな あそこで諦めてもうええわ!って言ってたら 今の俺は居てないな いつまで咲けるか分からんが 出来るだけ長く見ていたいな どうせ枯れていくんやったらな 笑顔で枯れていきたいやん 満ち足りた人生は極僅か ならそろそろ俺らも食らわすか? せやなぁ” 『切り花の一生』より引用)

彼の歌詞は、苦境にある人々の言葉を代弁しつつ、常に反骨精神と激励と優しさで溢れているそして、『飛田新地』という曲を含め、この街について歌うこともある。元々HIPHOPが、アメリカ・NYの貧困層のアフリカ系アメリカ人の若者文化であったことを考えると、SHINGO★西成はその精神を最も体現している日本人の一人ではないだろうか。

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(写真は、越冬闘争のステージで歌うSHINGO★西成さん)

このSHINGO★西成は、毎年釜ヶ崎の越冬闘争でライブをしている。三角公園のステージ前には、ライブのために大勢のファンが駆け付けた。お洒落した女の子、やんちゃな雰囲気の男の子・・・みんなこの時間に合わせて来たのだろう。普段はおっちゃん達しかいない三角公園に、急に若者が溢れた。そして若者も、おっちゃんも、子どもも一緒になってステージを眺める姿は、なんだか不思議な光景のように思えた。性別・社会的地位に関係なく、ステージを見つめる人たちの目はキラキラしている。これは間違いなく、越冬闘争最大の盛り上がりだろう。

さらに、ステージ横には米袋がうず高く積まれている。実は、2013年から毎年、SHINGO★西成は米カンパを呼びかけているのだ。昨年には、1548kgものお米が寄付され、これらは釜ヶ崎の越冬闘争の炊き出しに使われている。SHINGO★西成オフィシャルサイトより参照)つまり、さっきまで私が盛っていた大量のご飯は、この米カンパで寄付されたものなのだ!(そんなことも露知らず、黙々とよそっていたのが悔やまれる。)

この日のライブの最後には、誰でも登壇してDJの流す音楽に合わせて即興のラップをする、もしくは観客に対して話せる時間があった。若い男の子が壇上に上がり『15才の時から21才まで、ずっとファンです。今日もずっと下向いて泣いてました。本当にありがとうございます。』と涙ながらに話しているのを見ると、「こんなにも希望を貰っている人がいるんだな・・」と胸が熱くなった。

越冬闘争の夜回り

午後8時すぎにライブが終わると、一気に人が少なくなった。そしてここからは、有志で夜回りに出掛けるのだが、この日の夜もドラマが待っていた。

夜回りと一口に言っても、実は越冬闘争で行われる夜回りには、2つの種類がある。「人民パトロール」と「医療パトロール」だ。

繁華街へのデモ「人民パトロール

午後8時からの夜回りでは、皆でホッカイロや缶詰や弁当を持ち、夜の街を歩く。ホームレスの人を見かけたら、こうした物品を渡すのだ。参加者数は50名前後、多い時には100人近くになる。しかも、この夜回りは『人民パトロール』(略称:人パト)と呼ばれている。前の記事でも書いたが、この越冬闘争自体が労働運動の流れで出来ているので、この人パトも半分はデモのようなものなのだ。

しかも驚くべきことに、これは警察に正式な許可を得ていない無届けデモにも関わらず、警察や公安が100人近く出動するらしい。トラブルが無いように見張ったり、集団が動くための交通整理にあたるらしい。年末年始なのに、警察も大変だ。心の中では、”家でゆっくり紅白見たいんだけどな”と思っている警察官も大勢いる気がする。そして、この人パトは釜ヶ崎だけではなく、難波・天王寺・梅田・日本橋といった繁華街で行われる。ここ数年で、行政は繁華街のホームレス対策をかなり進めたので、実際に路上に居る人は少ないのが現状だ。それでも繁華街で人パトを行うのは、ある種の慣習のようなものかもしれない。

釜ヶ崎の夜回り「医療パトロール

実質的にはデモである「人民パトロール」とは対照的に、釜ヶ崎地域の路上生活者に対して夜回りするのが医療パトロール。今回は、これに参加した時のことを詳しく書きたい。

医療パトロールのスタートは午後10時と大分遅い。これに参加するためには、京都への終電は諦めなければならないので、私はあらかじめ知人の部屋を借りれるよう頼んでおいた。こうした準備が必要なこともあり、私が越冬闘争期間中に医療パトロールに参加できたのは、残念ながら1月2日の一夜だけだった。貴重なただ一度の機会に緊張しながら、私は集合場所まで歩いていった。そして22時を迎えると、驚くべきことにそこに集まったのは、なんとたった15人しかいない。人パトが100人くらい参加するのに、なんでこんなに少ないんだ!!と衝撃を受けた。しかも集まったのは、中年~高齢の女性や男性ばかり。若者なんてほぼ皆無だ。

人数の少なさに驚いていると、すぐに二手に分かれて出発することになった。私たちのすぐ傍に控えていたのは、一台のリヤカーだった。

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大量の毛布やカイロを乗せたリヤカーの後ろを、とぼとぼとついてゆく。リヤカーなんて見たの、何年ぶりだろう・・・・。静まり返った真夜中の釜ヶ崎の街を、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。数人しかいないこのグループは、どうやらベテランの方が多いようだった。路上生活者がいそうな場所では歩みを止めて確認し、もし路上に人がいたら声をかけ、起きていたらカイロを渡し、泥酔して起きなかったら脈を確かめ、毛布でくるんであげる。

路上に寝ているおっちゃんに寄り添うベテランさんは「カイロ持ってきて。あ、その毛布は横に置いておいてね。」と私にテキパキと指示を出してくれる。なんて手慣れた対応なんだ・・・と、私は感心しきりだった。私は、中でも最も経験豊富そうな女性に、勇気を出して話しかけてみることにした。

釜ヶ崎のスマイルゲリラ

 一人目に話しかけた方は、70代の、身長は150㎝にも満たない女性だった。彼女は毛糸の帽子を被り、少し早足で歩いていた。私が「もう釜ヶ崎の夜回りをして長いんですか?」と尋ねると、少し驚きつつも『そうよ、もう3~40年くらい。』と答えてくれた。40年も夜回りしているのか!と、あまりの長さにおののいた。

大ベテランである彼女は、中野さんというらしい。話してみると非常に気さくで、とても率直に話してくれる。とても70代とは思えないパワフルさで、笑顔が愛らしい方だ。

彼女は20代前半に、キューバにサトウキビ刈りのボランティアに行ったそうだ。その後は、パレスチナ解放闘争のさなかに、パレスチナ難民キャンプで5年間も看護師として働いていた。持ち前の愛らしい笑顔とコミュニケーション能力で、どんどん人の懐に入ってゆく彼女を、現地の人々は『スマイルゲリラ』と呼んだらしい。帰国すると日本赤軍のメンバーと疑われて政府からパスポートが発給されず、彼女は当時の外務大臣を訴えて最高裁まで争い、勝訴してパスポートを得たそうだ。・・・一体この老女は何者なんだ。50年も前の日本に、そんな20代の女性がいたなんて。凄まじい経歴だが、彼女のパワフルさを考えると納得がいく。どうやら私は、いきなりラスボス級の人物に声をかけてしまったらしい。

 率直に答えてくれる彼女に、私は色々な質問を投げかけてみた。

釜ヶ崎は好きですか?」『うん、好きだね。

「どうして好きなんですか?よく言われるように、人情が残っている街だからですか?」『そうだね、ここは面白い街だから好きだね。人情っていうのもあるけど、そもそも人間っていうのは面白い。人間って、全然知らない人のために、自分の命を捨てれるのよ?そんな動物は他にいないじゃない。

確かに、言われてみればその通りだ。彼女は話続ける。『釜ヶ崎に来る人はね、最後には路上に自分の命を投げ出すの。こうして夜回りしてるとね、亡くなった方は本当に安らかな顔をしてるのよ。すごく穏やかに、良い顔で亡くなる人がお年寄りには多いね。本当に仏さまみたい。皆色々あってここに来て、背負ってきた苦しみを投げ捨てて、命さえ路上に差し出すのよ。普通の人が持つようなものを手放していって、裸になって、良い顔になるの。だから、夜回りしていると、命を死んで見せてくれる感じがするね。

そんな風に夜回りのことを捉えているとは、私の想像を遥に超えていた。知らない誰かが、死をもって「命」を見せてくれる・・・・こうした彼女の死の捉え方は常人並みではないと感じた。これも難民キャンプで人々の生死と関わってきた彼女ゆえの見方なのかもしれない。

そうこう話しているうちに、夜回りの列は進んでゆく。彼女からは、これ以外にも沢山のことを聞いた。リヤカーに積まれている毛布は、全国のホテルから寄付されたものであること。もし路上で亡くなった人がいたら、警察を呼ぶこと。警察が後日調べて身元が分からない場合、その人が身に着けていた所持品や衣類などは発見者のもとに届くこと。言われれば「なるほど」と思えるようなことも、普段接点が無いために知らなかったことが沢山あった。私はまだまだ、全然世界を知らないのだ。

リヤカーの後ろをゆっくり歩きながら、最後には三角公園で集合した。解散・反省を行うために一行は施設へと向かう。この道中にも、ある女性にも話しかけたのだが、それはまた別の機会に書きたい。こうして、多くの出会いや発見に半ばぽーっとしながら、私の越冬闘争4日目は幕を閉じた。

 

今回の記事で引用したSINGO★西成の『切り花の一生』の動画はこちら

www.youtube.com

#10. 越冬闘争3日目~釜ヶ崎の年越し~

2017年1月1日。年越しを釜ヶ崎ですることに決めていた私は、無事に年越しの瞬間を迎えられた。翌朝、知人が住む釜ヶ崎内のマンションの一室(ドヤでは無い)で目を覚ますと、窓の外へと顔を出した。澄み渡る晴天の下、初日の出が優しく街を照らしていた。路上生活をしている方も同じく初日の出を見られたら良いのだが・・・と思わずにはいられない。私は昼頃に部屋を出て、街で食事を済ませると、早速三角公園へと向かった。

この日の三角公園で、越冬闘争最大の出会いが待っていようとは、この時知る由も無かった。

釜ヶ崎の正月

釜ヶ崎の商店街を歩いていると、まず流れている音楽に驚いた。普段は演歌が流れているのに、琴の音色が聞こえる!いかにも正月な雰囲気の、しっとりとした曲だ。誰が商店街のBGMを管理しているのだろうか、釜ヶ崎の商店街でも正月らしい音楽が流れることが嬉しく、私は正月気分を満喫した。

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街中では、焼肉屋の前で、店主と子供4人で集まってお雑煮を売っていた。『お雑煮いかがですかぁ~!!』と子どもが元気に宣伝している。子どもがはしゃぎながら店先に立ち、行き交うおっちゃんと挨拶する姿は、普段の釜ヶ崎では見られないものだ。

三角公園の周りでは、道行くおっちゃんたちが『あけましておめでとうございます。』と互いに挨拶して、朗らかな雰囲気だった。やはりお正月は誰にとってもお目出度いのか、街全体が晴れやかな空気に包まれたように感じた。

午後2時ごろに炊き出しの準備をしている学生ボランティアの所へ行き、少しお手伝いをした。手を洗い、消毒し、ビニール手袋をする。机の上には大量の玉ねぎが並んでいて、一つずつ切ってゆく。少し経つと、釜ヶ崎の街を学生たちと歩くことになった。(この時の話は、またの機会に書きたい。)散歩が終わると、私はまた三角公園の中を歩き、おっちゃんたちと話すことにした。

余談だが、なぜ私がボランティアの手伝いもそこそこに、おっちゃん達と話すことを重視している理由の一つは、彼らと話す中で『生きる』ということについて考えたいからだ。家族や社会的地位を失い、天涯孤独になっても、それでもなお生き続ける。一体その力はどこから来るのか。これはあくまで個人的な関心だが、生き続ける強さ(もしかしたら弱さかもしれない)の源泉や、人の本質的な部分を知りたいという気持ちがあるのだ。

忘れられない出会い

前日と同様に、おっちゃんたちに話しかけてゆく。木や花が好きで街路樹が切られることに心を痛ませる人、刑務所に入っていた時の話をしてくれる人・・・皆色々なドラマがあってここにいるのだということを、改めて感じる。しかし、長く腰を据えて話してくれる人を見つけるのはそう簡単では無かった。

そうして私は、三角公園の隅に佇んでいる男性に話しかけた。彼は森本さん(仮名)という、スラリと背の高い男性だ。50代くらいかな、と思ったのだが年齢を聞くと73歳だというので驚いた。

壮絶な人生

森本さんは北海道・札幌の繁華街で生まれ、ビルのオーナーだった両親のもとで何不自由なく育った。非常に裕福なだけでなく、彼自身も長身のイケメンゆえにモテたらしく、順風満帆の人生だった。しかし、彼には決定的に難しい癖があったのだ。ギャンブル依存症である。私立大学に入ったものの、学費は全てギャンブルに回して中退。しばらくはバスの運転手として働くも、競馬や競艇などにつぎ込み、借金は何千万にものぼった。かつては奥さんも子どももいたが、離婚したそうだ。実家からは勘当され、手切れ金として渡された500万円も、たった20日でギャンブルで全て失った。そうして追われるように釜ヶ崎にきて、何年も日雇い労働者が作業現場まで行く送迎バスの運転手をしていたが、ほどなくして定年。現在は年金を貰って生活している。

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森本さんはお話ししている間に何度も何度も『本当は俺は、こんな所にいるような人間じゃ無いんだ。』と言っていた。元々裕福な家庭で育ったなら、そう思うのも無理は無いと思う。育ちの良さゆえ標準語を話すこと、高価な時計をしていたこと、色白で肌が綺麗だと褒められていたこと・・・そんな彼の自信を持っていたことを一つ一つ教えてもらった。

そうして話を聞いているうちに、炊き出しの時間になった。彼と一緒に炊き出しの列に並び、一緒に食べることにした。(炊き出しは、100円払えば関係者も食べることができる。)二人でビーフシチュー丼と箸を受け取り、三角公園の隅にあるベンチに並んで食べた。おっちゃんと一緒に食べる、初めてのご飯だった。どこから貰ってきたのだろうか、森本さんはレストランにある紙ナプキンを取り出し、私に使うよう勧めてくれた。

食べ終わると、『でもな、さっき俺が言ってたことは全て本当のことなんだ。嘘なんかついてない。家に戻ったら通帳も写真も免許証もあるから、取ってきて見せてやる。家の前までついておいで。』と言われ、少し迷ったが一緒に行くことにした。

初めてのドヤ

三角公園からほど近い場所に、彼の住むマンションがあった。マンションといっても、実際はドヤのことで、一部屋は3畳しかないそうだ。森本さんは『寒いから、フロントの前で待っててね。』と言って、エレベーターに乗って上がっていった。ドヤに足を踏み入れたのは初めてのことでキョロキョロしていたら、近くにいた高齢のおっちゃんからここは女は出入り禁止だ!!出ていけバカヤロー!!!と怒鳴られた。

半泣きになりながら慌ててマンションを出ると、寒空の中で森本さんの帰りを待った。『なんで元旦から、見ず知らずの人に怒鳴られてるんだろう・・・。』と凹みつつ立っていると、しばらくして森本さんが出てきた。

森本さんにマンション前にある自販機に呼ばれると、『コーヒー買ってあげるわ。』と言われた。いやいや、限られた年金で生活している方に奢ってもらうわけにはいかない!と思い、「気持ちは嬉しいですけど、受け取れないですよ。」と伝えた。それでもご馳走したそうだったので、頑なに拒否するのも失礼かと思ってミルクティーを買ってもらった。そうして森本さんは自分の分のコーヒーを買うと、おもむろにバッグから写真を取り出した。

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自動販売機の灯りに照らしながら、『これが俺、これが元奥さん、これが息子、これが死んだ父さん。・・・この時は一番幸せな時だったなぁ。』と、一枚一枚説明してくれた。もう40年も前になる写真を、ずっとずっと大切に持ち続けていたのだ。そんな彼の宝物を見せてくれたことが、本当に嬉しかった。写真を見終わると、私たちは二人で飲み物を手にして三角公園に戻ることにした。

再び、三角公園

炊き出しが終わった公園は閑散としていて、数十人しかいなかった。ステージでは、女性が一人で歌っている。綺麗な声で歌っているのは、童謡や名曲ばかりだ。

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私たちはステージを遠くに見ながらベンチに座り、しばらく無言で飲み物を飲んだ。幸せな時間だ。

飲み物を飲むと、おっちゃんはバッグから写真と通帳を取り出した。通帳を見せてもらうと、確かに500万円振り込まれた後、20日で残額441円になっていた。しかも、最後に引き出した額は、250万円以上だ。全財産250万を一度に博打に使う時の気持ちは、想像を絶する。唖然としている私を見て『な、本当だろ?嘘ついて無かっただろう?』と、森本さんは笑っていた。

大切な友

森本さんには、ここ釜ヶ崎にいる友人の話をしてくれた。

ここにも何人か友達がいたんだけどな、良い人は皆死んじまった。ずいぶん年もとったし、酒の飲みすぎで胃がんになったのかなぁ。具合が悪くなって病院へ行くとな、医者から余命宣告されるわけだ。そうして俺が見舞いに行くとな、皆ボロッボロ泣くんだよ。身寄りが無いから、見舞いに来てくれる人がいないんだろう。あんまり皆泣くからさ、俺は見舞いに行くのが嫌になっちゃったよ。でもな、今は一人だけ信じられる奴がいるんだ。

森本さんの唯一の友人は、良治さん(仮名)といい、50代半ばの男性らしい。

良治はな、良い奴だぞ。あんなに良い奴は、釜ヶ崎で他にいないよ。俺が本当にお金に困ったときは、一万円をこそっとポケットに入れてくれた。それもすぐ使っちまったけどな。でも、「森本さんお金貯めないとダメですよ」って言われたから、今度良治に通帳とクレジットカードを預けることにしたんだ。暗証番号は教えないけどな。お金が必要になったら、一緒にお金をおろしに行くんだ。わざわざ一々お金おろすのに付き合ってくれるやつなんて普通いるか?釜ヶ崎で、通帳とクレジットカード預けられる奴なんて、他にいないぞ。』と言っていた。本当に森本さんは、良治さんのことが好きで、信用しているようだった。

「良治さんって、どんな方なんですか?生い立ちとか、経歴を教えてくれませんか。」と聞くと、森本さんは言うのを躊躇っていた。でも重い口を開いて、教えてくれた。

『・・・良治はな、シャブ中だったんだ。覚せい剤をずっと使ってて、8回も刑務所に入ってた。でも、良治は変わったんだ!もうあいつは覚せい剤なんて絶対にしない。それは凄いことだと思うよ。良治は生活保護を貰っているが、それをちゃんと貯めているのも偉い。貯めてるから炊き出しにだって来ないんだ。だから俺よりずっと年下だけど、俺はあいつを尊敬してる。変われた良治を尊敬してるんだ。人間っていうのは凄いぞ。人は変わるんだぞ。

そう熱っぽく語る森本さんの言葉に、涙がとめどなく溢れてきた。本当に良治さんが覚せい剤を使わなくなったのかは分からないが、それでも良治さんが、森本さんという一人の人間の支えになっていることに胸を打たれた。元覚せい剤中毒者でも、こんなにも誰かの心の拠り所になれるのか。人を信じるって凄いな、尊いな・・・と思った。森本さんと良治さんから、私が関心を抱いていた『生きる』ということの一端を、教えてもらったような気がした。私は勇気を出して打ち明けてくれたことに御礼も言えず、ただただ泣いてはマフラーで涙を拭っていた。

森本さんの夢

ひとしきり泣いた後、ふと私は今日が元旦だったことを思い出して、森本さんにこれからのことを聞いてみようと思った。「今年、何かしたいことや目標はありますか?」と尋ねると、『うーん、今年6月に何年ぶりかに息子に会うのが楽しみかなぁ。もしかしたら、こんな俺を見てがっかりするかもしれない。父さんも堕ちたなって。でも背広も革靴もあるし、ちゃんとした格好で会いたいなぁ・・・やっぱりカッコつけたいんだな。』と、照れつつも嬉しそうに言うのだった。『あと、実は海外旅行もしたいんだよな。ハワイとかグアムとか。ちゃんとお金を貯めて、旅行したいんだ。』とこっそり夢を教えてくれた。嬉しそうに語る森本さんの目は輝いていた。

別れの時

ステージの出し物が終わるころ、私も京都に帰らなければいけない時間が近づいた。森本さんは名残惜しそうに『今日は楽しい日だったなぁ。今度良治も一緒に遊びに行こう。また必ず会おうな。』と言ってくれた。二人で交差点まで歩いてゆくと、どちらからともなく握手をした。私が最初に釜ヶ崎に行った去年の3月も、同じようにおっちゃんと握手をしたことが蘇ってきた。優しく温かい手だ。「あぁ、元旦にこの人に会えて本当に良かった。」と感謝の気持ちが湧きあがってきた。私も、今年一年頑張ろう、素直にそう思わせてくれる出会いだった。