釜ヶ崎と女子大生。

釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#13. 越冬闘争を終えて~エピローグ~

この一ヶ月はバタバタしていたが、新潟の実家に数日間帰省していた。私の実家は新潟の限界集落で、物凄くアクセスが悪い。どれくらい田舎かというと、時々車庫にキジが激突して死んでいるくらい田舎だ。

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(写真出典:キジ - Wikipedia

ちなみにキジはこんな感じだ。流石に鶏くらいの大きさはあるので、死んでいると結構ビビる。なお、死んだキジはキジ鍋にして美味しく頂く・・・ような粗野な真似は我が家ではしていない。

こんな田舎に帰省したのには、理由がある。このブログを読んでくれている方はご存知の通り、今年の年末年始は釜ヶ崎に連日通い、帰省しなかったからだ。

越冬闘争の時に、あるおっちゃんと話していると『あんた、正月は実家に帰らないのかい?帰れる場所があるなら、帰ってやんな。』と言われた。少し切なそうに言われて、ぐっと胸にくるものがあった。そうか、ここにいる人達は帰る場所なんて無いんだ。春休みになったら、実家に帰ろう・・・・そう思った。

そうして少しばかりの帰省を終えて、改めて越冬闘争を経て思ったことや気づいたことを書いてみたいと思う。

人間のプライド

越冬闘争期間中、色々な人に話しかけた。無視する人、喜んで話してくれる人、恥ずかしがる人・・・皆個性的で、話しかける度に緊張したし、心が折れそうになることもあった。基本的に私はメンタルが強く無いので、怒鳴られたりするとすぐ凹む。それでも話しかけていくと、沢山語ってくれる人たちに、共通して登場する言葉があることに気がついた。

それは、『釜ヶ崎で、俺のことを知らん奴はおらん。』という言葉だ。最初は「へぇ~、そんなに有名人なんだぁ。」と素直に捉えていたのだが、それが複数人から言われるようになると疑問に思えてきた。実際、そういう発言をした人を他の人に尋ねると全然知らなかったりする。

この他、釜ヶ崎のおっちゃんで多いなと思ったのが経歴詐称だ。つまり、自分の過去を何倍にも盛って人に語るのだ。そのまま受け取ると「なんでここにいるの?」と思えるような、華々しい経歴の持ち主に時折遭遇する。(噂によると、自称「ボクシング二段」のおっちゃんもいるらしい。黒帯ですね。)反対に、過去の認めたくない経歴を隠すこともある。実際に、越冬闘争では40歳前後の自称「活動家」の男性に出会ったが、その人の経歴も華々しいものだった。その後、他の人と彼について話すことがあったが、相手曰くその人物は以前三角公園近くでホームレスをしていたらしい。当の本人がホームレスだったことを言うはずも無いが、非常に驚いたことをよく覚えている。

この「釜ヶ崎での知名度」と「やたらと凄い経歴」の二つが気になって、釜ヶ崎で活動している先輩や地域住民の人に聞いてみた。すると、『あぁ、その二つは皆言うことや。経歴も、嘘っぱちやで。』という衝撃的な答えが返ってきた。小さな嘘が、嘘を呼んで、いつの間にか嘘で固められた経歴になっている・・・そんな人も多くいるそうだ。

(だからこそ、元旦に出会った男性(越冬闘争3日目の記事)が、私に嘘をついていないことを、写真や通帳を見せて証明しようとしたことも納得がいった。嘘が多い街だからこそ、嘘をついていないことが彼の誇りになっていたのかもしれない。)

生きるための嘘

私は釜ヶ崎に通う前は、長年釜ヶ崎で暮らす日雇い労働者の人は自分の仕事にプライドを持ち、外から生活保護を求めて流れ着く人は様々なプライドを捨てているのではないかと勝手に想像していた。しかし、実際はそうでは無かった。釜ヶ崎知名度があると信じ、経歴を盛ることによって過去を美化し、自分の自尊心を固く守り続けたい人が沢山いるのだ。人は、ずっとずっとプライドを捨てずにいる。そんな単純なことが、釜ヶ崎に入って初めて分かった。

そして、私はこれが釜ヶ崎のおっちゃんに特有のものだとは思わない。例えば、こんな就活生の話を聞いたことがある。彼は東京の私大に進み、自堕落な生活を送っていた。そうして就職活動の時期になると、企業へ送るエントリーシートに全く虚偽の「学生時代に頑張ったエピソード」を書き、その様子を細部まで想像して「第二の記憶」を構築したのだそうだ。面接でエピソードを聞かれても、丹念に作り込んだ想像からボロが出ることは無い。そうして面接もうまくいき、地元の有力企業に無事内定したらしい。

こういう就活生が一定数いることは知っているが、この学生たちと釜ヶ崎のおっちゃんは同じことをしているのではないだろうか。嘘をつき続けると、次第にその嘘が本人にとっての真実になる・・・そんな感覚が両者ともにあるのではないか。人間としての尊厳を保つために、自分の中で少しずつ嘘を育ててゆく。私自身も、心のどこかで嘘を育てているところが無いと言い切れるか?という自問自答をせずにはいられなかった。

釜ヶ崎と介護

越冬闘争に参加して、気になった点をもう一つ書いておきたい。それは、越冬闘争に関わるベテランの方が口を揃えて『今年は炊き出しに並ぶ人が少ない。』と言っていたことだ。1日目だけではなく、全体を通じて人が少ないと皆言っていたのをよく覚えている。途中で、ごく当たり前のことにハッと気がついた。三角公園まで炊き出しを貰いに来るには、立って歩かなければならないじゃないか

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(写真:三角公園にて炊き出しを食べる人たち)

つまり、高齢化があまりにも進み、歩いて炊き出し会場まで来れない人が急増しているのではないか。実際、釜ヶ崎周辺を歩くと、介護事業所の数の多さに驚く。そう考えると、釜ヶ崎の無数にあるアパート(元ドヤ)の一体何室に、まともに立って歩けない高齢者がいるのだろうか。想像するだけで、鳥肌が立った。釜ヶ崎は、要介護者数が激増するであろう数十年後の日本を先取りしているのではないか。この件については、詳しい介護事業者数や、被介護者数などを今後調べて、改めてブログで書きたいと思う。

最後に

以上が、今回の越冬闘争で感じたことや考えたことです。まだまだ考えることは多いですが、少しだけ書いてみました。今回釜ヶ崎の越冬闘争に参加するにあたり、色々な方にご心配をおかけし、かつ応援していただきました。心配させてしまってすみません、そして応援ありがとうございました。この場をお借りして、御礼申し上げます。

余談ですが、このブログの総アクセス数が1万を超えました。(今は1万2千pvくらいでしょうか。)いつも淡々とした口調で書いている私ですが、流石にわーいv(*´∀`*)vとなりました。いつも見てくださっている方、ありがとうございます。とは言うものの、アクセス数は基本的に気にせずに今後も真摯に更新してゆきますので、引き続きよろしくお願いします^^)

#12. 越冬闘争5日目~釜ヶ崎の年越し~

またしてもだいぶ更新に日があいてしまった。己の筆無精に反省しつつ、今回も書いてゆこうと思う。もちろん舞台は釜ヶ崎の越冬闘争。年末年始を三角公園で過ごしたときの話だ。

最終日の朝

2017年1月3日。ついにこの日がやってきた。

今日で釜ヶ崎の越冬闘争も終わりだ。

2日の夜は釜ヶ崎の知人宅に泊まり、そのまま最終日の朝を迎えた。目を覚まし、マンションから出ると、近くの喫茶店に入ってモーニングを頼んだ。元旦はどこもお店が閉まっていて困ったが、3日には営業を始めている店も増えて助かる。余談だが、大阪には「純喫茶」と呼ばれる古き良き喫茶店が多く残っている。故郷の新潟にはこういう喫茶店は少ないので、こんなにレトロな喫茶店が多いのは新鮮だ。こうした老舗の喫茶店たちは、目まぐるしく変わる釜ヶ崎の街をそっと見守ってきたに違いない。

三角公園に行くにはまだ時間が早かったので、釜ヶ崎の街をふらふらすることにした。道を歩くと「あけましておめでとうございます。」と店先で人々が挨拶している光景を何度も目にした。釜ヶ崎の正月らしい雰囲気を満喫した私は、行きつけのカレー屋に向かった。

行きつけのカレー屋で

釜ヶ崎三角公園の近くには美味しいカレー屋さんがある。名前を薬味堂さんというカリー屋 薬味堂 大阪西成 yakumido.com

もう何度行ってるか分からないし、店主のお兄さんには物凄くお世話になっている。私が釜ヶ崎でお世話になっている人TOP3に確実に入るだろう。

いつものようにカレーを食べたら、今日は特別に店の二階(改装中)にあるコタツとWifiを貸してもらった。もちろん、このブログを書くためだ。こうしたご厚意は、本当にありがたい。越冬闘争期間は、単独行動が基本なので心細いが、マスターや常連さんに沢山支えてもらった。ありがとう、マスター。みんなにも是非おススメしたいお店なので、マスターや美味しいカレーについては、改めてがっつり紹介したいと思う。

大好きなマスターへの感謝に溢れつつ、コタツでPCを起動してブログを書き始めた。書き始めると、すぐに電話が鳴った。知らない番号だ。「誰なんだろう・・・。」と怯えながら電話に出てみた。

私「はい、もしもし。」

??『ああ、かまきょうさん?私よ、ナカノ!』

中野?・・・・・あああ!!!そう、電話をかけてきたのは、昨夜話した釜ヶ崎のスマイルゲリラこと中野さんだった。

詳しくは、前回の記事を見てもらいたい。昨夜の医療パトロールで出会った中野さんは、釜ヶ崎の夜回りを始めて40年の大ベテラン。それどころか、彼女はパレスチナ難民キャンプで5年間も看護師として働いていた経験を持つ(本当はもっと色々あった)70代の女性だ。確かに昨夜別れ際に連絡先を渡したが、まさかこんなに早く電話がかかってくるとは・・・・。

今日は三角公園に来るの?来るんだったらもっとお話ししたいと思って電話したの!』とやや早口な、明るい声で言われた。折角お誘い頂いたのが嬉しかったので、私は30分後に三角公園で待ち合わせをした。

釜ヶ崎のスマイルゲリラ、再び

三角公園に着くと、中野さんは既に友人と話しながら待っていた。私を見つけると、中野さんはすぐに駆け寄り『喫茶店行きましょ!』と言ってきた。私は彼女の行く方向に従って、三角公園から商店街へと向かった。

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相変わらずカラフルなニット帽だが、それも良く似合っている。中野さんの後ろについてゆくと、これまたレトロな純喫茶に入った。店内には煙草を吸う男性客が一人いるだけで、のんびりとした空気が漂っている。テレビには正月特番の番組が映っていて、店主はそれをぼうっと眺めていた。

2人で飲み物を頼むと、中野さんがおもむろに話し始めた。私はミルクティーを飲みながら、中野さんの話を小さなメモに書いてゆく。

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 『私ね、昨日あなたに話しかけられたこと、すっごく嬉しかったの。』と、開口一番中野さんが言った。深夜に医療パトロールに参加する学生はただでさえ少ないが、色々と質問してくる人は殆どいないという。そんな中で、色々と質問してくる私の積極さを気に入ってくれたらしい。

この日も、中野さんはまた色んな話をしてくれた。最初の話題は、キューバに行った時のことだった。『キューバにはね、孤独が無いの。貧しくても、皆厚かましいくらいに関わってくるから。日本は豊かだけど、みんな孤独でしょう?私はキューバの人の温かさが本当に好きだったの。』と語る中野さんの目は輝いていた。彼女は、貧しいけれど助け合う空気や、精神的な豊かさに溢れたキューバに魅入られたそうだ。そして、キューバ社会主義が理想の政治形態だと考えているらしい。私が、「中野さんは、何か政治思想をお持ちですか?」と尋ねると、真っ直ぐに私の目を見て『ええ、私は左翼です。』と即答した。私は政治的な立場云々を議論するつもりは無いが、こうして自分のことを「左翼だ」と堂々と言える彼女は天晴れだと思った。

その他にも、パレスチナキューバでの慣習・文化の話(割礼や婚姻時のこと)や、戦場の話、さらには地元の九州・大分での幼少期のことや、尊敬する母親の話もしてくれた。彼女の母親は野性的で、パワフルで、彼女にとっては神のような存在らしい。彼女曰く、ある日母親は山に数時間入ってから家に戻ると、5匹も大きな蜘蛛を体に這わせたまま、それを気にも留めずに帰宅したそうだ。スマイルゲリラの母は、やはり強烈な人物だったのだろう・・・。

一通り話し終わった後には、『今日は、母のことを話せて良かった。久しぶりに母について話せた。』と言って、目には涙が滲んでいた。もう70代になると、親のことを誰かに話す機会は無いのだろう。親を懐かしんで泣く気持ちは、20代の私にはまだ正直なところ分からない。想像の範囲でしか共感できないからだろうか、母親についての話を聞いていると、少し戸惑いにも似た感情が湧いてきた。そして、その戸惑いの中に、50年という時の永さを感じた。

釜ヶ崎の路上で

中野さんと喫茶店で話し始めて、2時間ほどが過ぎただろうか。私たちは三角公園に戻るために、喫茶店を後にした。路上に出て歩き始めると、中野さんが私の右腕に手を回し、ぴったりと体をくっつけてきた。この人懐っこさを見ていると、彼女が海外でスマイルゲリラと呼ばれた理由が分かった気がした。

しばらく歩いていると、突然中野さんが『あ、月光仮面!!!』と叫んだ。ええ!?何事?と驚いて前を見ると、向こう側から自転車に乗った高齢の男性がやってくる。真冬だというのに、なぜかサングラス(しかもティアドロップだ)をかけ、片方の鼻にはティッシュと思われる白い詰め物をしている。

中野さんは嬉しそうに、『彼ね、月光仮面っていうの。いつもサングラスして、右の鼻に詰め物してるの。鼻血が出てるわけじゃないんだけどね。』と説明してくれた。一体何なんだ、このお爺さんは。

月光仮面と呼ばれる謎のお爺さんは、私たちの傍に自転車で乗り付けてきた。

月光仮面おう!中野さん。明けましておめでとう!それあんたの娘か?

中野さん『そうよ!私の娘!!

月光仮面そっかそっか。じゃあ、またな!!』(そして颯爽と去る。)

・・・・いやいやいや!!!娘じゃないから!!!もし娘なら、一体何歳のときの子なんだ。しかもなんで月光仮面も納得して突っ込まないんだ。そもそも一体誰なんだ。

突然の展開に、何が何だか分からずクラクラし、ツッコミを入れる気力を失った。そんな私をよそに、中野さんは相変わらず上機嫌で腕を絡ませて歩いている。そうして、あれよあれよという間に、三角公園に着いた。

三角公園では、炊き出しの準備が着々と進んでいた。人が溢れる三角公園の真ん中で、私は中野さんに別れを告げた。お互いに名残惜しかったが、また会いましょう、と約束をした。そうして、また握手をした。温かい小さな手だった。

私はそのまま炊き出しの準備を進める学生や、お世話になった方たちに挨拶をしてまわった。もちろん、顔見知りになったおっちゃん達にも。5日前には、全く知り合いなんていなかったのに。この時、越冬闘争が終わった実感はまだ湧かなかった。また明日も来るような気がして、でも少し寂しくて。私は不思議な気持ちのまま釜ヶ崎の街を歩き、京都への帰路についた。

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こうして私の越冬闘争の日々は終わりを告げた。

次回の更新では、越冬闘争を終えての感想を書きたいと思います。次の記事もお楽しみに。