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釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#2 西成・釜ヶ崎・あいりん地区、何が違うのか?

釜ヶ崎

 これから釜ヶ崎での出来事を書くにあたり、どうしても書いておかなければならないことがある。それは、地図上には釜ヶ崎という地名は無い、ということだ。一体これはどういうことなのだろうか?

「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」・・・この3つはどれもよく聞く名前だが、何がどう違うのだろうか?その違いを知るためには、歴史を振り返らなければならないが、極力分かりやすいように解説してみた。

今後も書籍やニュースなどでこの地域が取り上げられているのを目にするかもしれないが、上記の3つの違いを知っておくことは、内容を理解する上で非常に有益だと思う。

「西成」は区の名前で、「釜ヶ崎」はその一部

前の記事 (#1 女子大学院生、大阪・釜ヶ崎へ行く。 - 釜ヶ崎と女子大生。)でも紹介した通り、西成区は大阪市の南に位置する。西成区は長方形の形をしており、釜ヶ崎と呼ばれる地域はその北東の一部の地域を意味する。地図で表すと、こんな感じだ。

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 通称釜ヶ崎と呼ばれる地域を赤色の線で、その周辺のディープな地域(個人的見解)をピンク色で示してみた。つまり、西成区でディープな地域は一部であるということがよくわかる。そして、釜ヶ崎という町名は一つも見つからない。通称、釜ヶ崎と呼ばれる地域は地図上では萩之茶屋太子と記されている。

そして、西成区の他の地域は、閑静な住宅街だったり、古き良き下町でもある。一口に西成と言っても、とっても広く、場所によって様々な顔を持っている。だから私は「西成=危ない」と言われることに疑問を感じざるを得ないし、このブログのタイトルを「西成と女子大生」にしなかった理由はここにある。

 「釜ヶ崎」と「あいりん地区」は何が違うのか?

上記までで、西成と釜ヶ崎の違いは説明できたと思う。それでは、あいりん地区とは一体何なのか?一言で言ってしまえば、"地域的"には「釜ヶ崎=あいりん地区」である。しかし、その言葉の違いに、釜ヶ崎の歴史がぎゅっと凝縮されている。以下で簡単に説明するので、忙しい人は是非スライド画像だけでも見てもらいたい。

明治初期~第二次世界大戦 

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先程「釜ヶ崎という地名は無い」とあれほど強調していたが、実は以前は実際に地名として存在していた。多方面から釜ヶ崎を解説している『釜ヶ崎のススメ』(洛北出版、2011年)によれば、明治時代にはまだ地図上に釜ヶ崎という地名が記載されていた。この頃は一面の田んぼで、何にもない田舎だった。

当時の大阪の都市圏は、現在の西成区には届かないほど北の方に位置していた。この頃の木賃宿街は長町(現在の日本橋界隈あたり)にあったが、都市の近代化が進み、木賃宿街と貧民たちは市外への移転を余儀なくされる。木賃宿街は貧民の集まる場所であり、もれなく感染病・犯罪が蔓延しやすい場所なのだ。都市を大きく・整った街にしたい政府側にとっては、いつの時代もこうした人々は邪魔なのだろう。こうして、なかば強制的に排除された彼らが行きついた先が、現在の釜ヶ崎だったのである。釜ヶ崎といっても、厳密には現在の飛田地域のようだが、この部分の説明は、上述の本の第四章(加藤政洋著)で詳しく書いてある。)

こうした貧民たちが流れ着いた釜ヶ崎は、木賃宿街として有名になり、第二次世界大戦後には戦災被災者が集まり多くのバラック住居がひしめくスラム街になった。当時は復興に向けて皆が頑張るような、エネルギー溢れる街だったことが想像できる。

戦後~現在

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戦後の復興も進み、釜ヶ崎は多くの人が暮らす街になっていた。1960年代前半では、既に3万人以上の人口を抱え、日雇い労働者が6~7割、単身者世帯4割、男女比率が5対5くらいだったようだ。『じゃりン子チエ』の舞台は、ちょうどこの頃の釜ヶ崎だったのだろう。(知らない方は、これを機にアニメを観てみよう。)

じゃりン子チエ』で明るく描かれる当時の釜ヶ崎でも、日雇い労働者の境遇は決して良いものではなかった。1961年8月1日に、ある事件が起こる。ひとりの日雇い労働者が車にはねられ、警察官が駆けつけたものの、そのまま数十分間放置されたのだ。この対応に、日雇い労働者たちが激怒した。彼らは仲間のために決起し、そのうねりは暴動となった。第一次釜ヶ崎暴動と呼ばれたこの事件は、当時普及しつつあったテレビで「釜ヶ崎で暴動」と連日のように報道され、「釜ヶ崎は危ない」というイメージが全国的に広まった。

この暴動を受けて、政府・大阪府大阪市が大掛かりな釜ヶ崎対策を行うことになる。釜ヶ崎対策の主な内容は、以下の3点だ。

①家族を持つ労働者を釜ヶ崎以外の土地へ移住させる
②1970年の万博に向けて、独身男性を集める
③暴動のイメージ払拭のため、メディアでは釜ヶ崎を「あいりん地区」と呼ぶ

・・・そう、ここでやっとあいりん地区という名前の登場だ。つまり「釜ヶ崎」と「あいりん地区」は、地域的な差は無いものの釜ヶ崎」が俗称であるのに対して、「あいりん地区」はメディアで使用される言葉なのだ。

より厳密に言えば、上記の対策が行政によって進められるプロセスの中で、大阪市大阪府・警察の三者が「あいりん(愛隣)地区」という呼称を考え、それをメディアでも使用しようということになった。

この釜ヶ崎対策で集められた独身男性たちが、1970年の万博はもちろんのこと、大阪の高度経済成長期の建設ラッシュの担い手になったことは言うまでもない。独身の日雇い労働者たちは過酷な現場で日々働き、不況にあえぎ、現在は高齢化が進んでいる。今の釜ヶ崎の街が、異様に高齢の男性が多いのには、こうした理由があったのだ。

まとめ

だいぶ長くなってしまったが、まとめると以下のようになる。

西成=区の名前。釜ヶ崎以外の地域がむしろ多数派。

釜ヶ崎=俗称。以前は地名があったが、現在は萩之茶屋が当該地域の正式名称。

あいりん地区=メディア等で釜ヶ崎を指すときに用いられる呼称。行政・警察が考案した。

ざっくりとした説明ではあったが、読者の方が少しでも「そうなんだぁ~」と思ってくれたら嬉しい。

今回の記事は、『釜ヶ崎のススメ』(洛北出版、2011年、原口剛・稲田七海・白波瀬達也・平川隆啓 編著)を参考にして書いた。今回は、特に序章と第四章を参考にしたが、他の章も釜ヶ崎について詳しく分かりやすく書いてある良書なので、釜ヶ崎について更に知りたい人には是非読んでもらいたい。 さらに、洛北出版HPでは、釜ヶ崎関連の新しい著書や、それに関連するイベント情報が載っている。

 

次回は、実際に私がなぜ釜ヶ崎に行くことになったのかについて書きたいと思います。