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釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#7. 越冬闘争前夜~釜ヶ崎の年越し~

釜ヶ崎 越冬闘争

このブログでは、これまで夏にあった出来事を書いてきた。でも今回は、本日12月29日から一週間、リアルタイムで釜ヶ崎のことを書いてゆきたい。私が年末年始に新潟の実家に帰らないなんて、人生で初めてのことだ。そうまでして、どうして釜ヶ崎に行くのか?

それは、年に一度の大イベントである越冬闘争が始まるからだ。

闘争前夜である今日は、越冬闘争とは何か、そして先週行われた越冬闘争のミーティングに参加した時の様子について書きたいと思う。

命がけの闘い、越冬闘争

以前の記事#2 西成・釜ヶ崎・あいりん地区、何が違うのか? - 釜ヶ崎と女子大生。でも紹介したが、釜ヶ崎は日雇い労働者の街として長く知られてきた。日雇い労働というのは、その名の通り、その日に稼いだお金で食べ、簡易な宿に泊まる暮らしをするのが一般的だ。したがって、年末年始は雇い主の会社が休むため、仕事が無くなり、宿に泊まれなくなる。普段は、仕事にあぶれた人は行政が運営する「シェルター」と呼ばれる施設で寝泊まりできるのだが、年末年始はこのシェルターも閉まってしまうのだ。そうすると、日雇い労働者は、路上生活をしなければならない。

日本の高度経済成長期を支えた日雇い労働者たちも、もうだいぶ高齢化している。彼らが寒空の下で一週間も野宿すると、命を落とす危険性があるのは当然だ。実際、釜ヶ崎での死亡率は年末年始が最も高い。この状況を改善するために、約50年にわたり越冬闘争が行われてきた。

越冬闘争では、炊き出しは勿論のこと、三角公園にあるステージ(公園にはステージがある!)でライブが行われたり、夜には夜回りが行われる。また、社会医療センターという建物の軒下では、「集団野営」と呼ばれる集団野宿が行われる。多くの人が一緒に布団を敷き、徹夜で見張り番をしながら夜を過ごすのだ。こうした活動全てをひっくるめて、越冬闘争と呼ばれる。

そして、この越冬闘争のスローガンは「ひとりの餓死者、凍死者も出さない」だ。この言葉から、釜ヶ崎の日雇い労働者にとって、いかに年末年始を生き抜くことがシビアか伝わってくると思う。

なぜ、闘争なのか?

この釜ヶ崎越冬闘争は、今回で47回目を迎える。本当に長い歴史を持つわけだが、第一回目は1970年らしい。私の以前の記事に書いたが、70年代というのは釜ヶ崎のおっちゃんたちが行政や警察と闘っていた時代だ。

しかし、彼らが闘う相手は他にもいた。第1回目の闘争を開催する時分には、釜ヶ崎の公園は暴力団などが取り仕切っていたのだが、労働者や実行委員たちは実力で公園を占拠しようとした。その際、暴力団と抗争があり、さらに駆けつけた警察や機動隊とも激しい闘いが繰り広げられた。まさに、当初は「闘争」だったのである。(詳しくは、『釜ヶ崎のススメ』を読んでもらいたい。)

越冬闘争委員会のミーティングへ

この越冬闘争は以前から書籍を読んで知っていたが、釜ヶ崎に詳しい知人H氏から「越冬闘争を知りたいなら、実行委員会のミーティングがあるから参加させてもらったら?」と紹介された。教えて貰ったのが12月に入ってからだったので、私は越冬闘争に向けた最後の全体会議にだけ、ギリギリで参加することができた。

最後の全体会議は12月20日の夜7時から。会場は釜ヶ崎のど真ん中にある「ふるさとの家」というキリスト教系の施設だった。

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古びた建物の一階には、すでに沢山の椅子が並べられ、開始時刻が近づくと人が次から次へと入ってきた。最終的には、30人くらいの人が集まっただろうか。参加者の多くは男性で、女性も何人か参加していた。大体40~50代くらいの人が多かったように思うが、ほとんどの方が越冬闘争に何年も関わってきたベテランの雰囲気を醸し出していた。この時点で、私が完全にアウェーな状況だったのは言うまでもない。

司会の男性が、越冬闘争における分担などについて、粛々と進めていく。そうすると、途中で新参者の私に、自己紹介をするよう言われた。「ついにこの時が来たか・・・」と観念し、立ち上がって30人のベテラン勢に対して挨拶をした。多くの鋭い視線を感じる・・・まるで、面接官30人が控える部屋に一人で面接を受けに入った気分だ。緊張で膝は震え、噛みまくっていたことは覚えているが、とにかく生きた心地がしなかった。

越冬闘争は、お祭り?

緊張しっぱなしの私をよそに、会議は続いてゆく。どうやら越冬闘争の中でも、三角公園とその周辺で行われるイベントを「越冬まつり」と呼ぶらしい。年末年始の釜ヶ崎は、祭りなのか?!と驚いてスケジュール表を見ると、確かにステージは沢山の出演者で埋まっており、祭りと言っても過言ではない。

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2日は、SHINGO★西成まで来るのか!(彼は釜ヶ崎出身の、全国的に有名なラッパーだ。)とテンションが上がっていると、会議の最後に、ある女性の話が出た。

日雇い労働者のアイドル・曽野恵子

会議の終盤に議題に上がったのは、「曽野恵子」という女性の出演についてだった。

彼女は何十年にも渡って、釜ヶ崎の日雇い労働者たちを支援してきた演歌歌手の方らしい。以前は三角公園のステージで、歌も披露していたようだ。彼女の代表曲の一つが、釜ヶ崎人情』Youtubeの動画はこちら。越冬闘争で歌っている様子です。)。この歌詞を、以下に少し紹介する。

   "身の上話にオチがつき ここまで落ちたというけれど

   根性まる出し まる裸  義理も人情も ドヤもある

   ここは天国 ここは天国 釜ヶ崎"

この歌詞と彼女の存在に、日雇い労働者の方がどれ程勇気づけられたかと思うと、胸がいっぱいになる。そんな彼女が会いに来るのを、日雇い労働者の方々もずっと楽しみにしているらしい。彼らからは、「恵子は来ないのか?恵子に会いたいなぁ。」という声がよく聞かれるそうだ。彼らにとって、彼女は大切なアイドルなのだと思った。

しかし、その曽野恵子さんが、現在重い病に臥せっているらしい。その彼女の出演について、色々な議論がなされた。意見が交わされる間にも、会議中には紙袋が回され、彼女へのカンパが行われた。私のところに回ってくる頃には、沢山寄付されていた。実行委員会の方々にとっても、きっと想い入れのある方なのだろう。

越冬闘争にむけて

上記の実行委員会のミーティングに参加し、越冬闘争が積み重ねてきた歴史と、それを支える人々の想いの深さを、少しでも知ることができたと思う。この越冬闘争には、宗教・政治が密接に絡む複雑な一面もあるが、私はできるだけ中立な視点で物事を見て、このブログを書くつもりだ。次回の更新も、お楽しみに。