釜ヶ崎と女子大生。

釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#12. 越冬闘争5日目~釜ヶ崎の年越し~

またしてもだいぶ更新に日があいてしまった。己の筆無精に反省しつつ、今回も書いてゆこうと思う。もちろん舞台は釜ヶ崎の越冬闘争。年末年始を三角公園で過ごしたときの話だ。

最終日の朝

2017年1月3日。ついにこの日がやってきた。

今日で釜ヶ崎の越冬闘争も終わりだ。

2日の夜は釜ヶ崎の知人宅に泊まり、そのまま最終日の朝を迎えた。目を覚まし、マンションから出ると、近くの喫茶店に入ってモーニングを頼んだ。元旦はどこもお店が閉まっていて困ったが、3日には営業を始めている店も増えて助かる。余談だが、大阪には「純喫茶」と呼ばれる古き良き喫茶店が多く残っている。故郷の新潟にはこういう喫茶店は少ないので、こんなにレトロな喫茶店が多いのは新鮮だ。こうした老舗の喫茶店たちは、目まぐるしく変わる釜ヶ崎の街をそっと見守ってきたに違いない。

三角公園に行くにはまだ時間が早かったので、釜ヶ崎の街をふらふらすることにした。道を歩くと「あけましておめでとうございます。」と店先で人々が挨拶している光景を何度も目にした。釜ヶ崎の正月らしい雰囲気を満喫した私は、行きつけのカレー屋に向かった。

行きつけのカレー屋で

釜ヶ崎三角公園の近くには美味しいカレー屋さんがある。名前を薬味堂さんというカリー屋 薬味堂 大阪西成 yakumido.com

もう何度行ってるか分からないし、店主のお兄さんには物凄くお世話になっている。私が釜ヶ崎でお世話になっている人TOP3に確実に入るだろう。

いつものようにカレーを食べたら、今日は特別に店の二階(改装中)にあるコタツとWifiを貸してもらった。もちろん、このブログを書くためだ。こうしたご厚意は、本当にありがたい。越冬闘争期間は、単独行動が基本なので心細いが、マスターや常連さんに沢山支えてもらった。ありがとう、マスター。みんなにも是非おススメしたいお店なので、マスターや美味しいカレーについては、改めてがっつり紹介したいと思う。

大好きなマスターへの感謝に溢れつつ、コタツでPCを起動してブログを書き始めた。書き始めると、すぐに電話が鳴った。知らない番号だ。「誰なんだろう・・・。」と怯えながら電話に出てみた。

私「はい、もしもし。」

??『ああ、かまきょうさん?私よ、ナカノ!』

中野?・・・・・あああ!!!そう、電話をかけてきたのは、昨夜話した釜ヶ崎のスマイルゲリラこと中野さんだった。

詳しくは、前回の記事を見てもらいたい。昨夜の医療パトロールで出会った中野さんは、釜ヶ崎の夜回りを始めて40年の大ベテラン。それどころか、彼女はパレスチナ難民キャンプで5年間も看護師として働いていた経験を持つ(本当はもっと色々あった)70代の女性だ。確かに昨夜別れ際に連絡先を渡したが、まさかこんなに早く電話がかかってくるとは・・・・。

今日は三角公園に来るの?来るんだったらもっとお話ししたいと思って電話したの!』とやや早口な、明るい声で言われた。折角お誘い頂いたのが嬉しかったので、私は30分後に三角公園で待ち合わせをした。

釜ヶ崎のスマイルゲリラ、再び

三角公園に着くと、中野さんは既に友人と話しながら待っていた。私を見つけると、中野さんはすぐに駆け寄り『喫茶店行きましょ!』と言ってきた。私は彼女の行く方向に従って、三角公園から商店街へと向かった。

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相変わらずカラフルなニット帽だが、それも良く似合っている。中野さんの後ろについてゆくと、これまたレトロな純喫茶に入った。店内には煙草を吸う男性客が一人いるだけで、のんびりとした空気が漂っている。テレビには正月特番の番組が映っていて、店主はそれをぼうっと眺めていた。

2人で飲み物を頼むと、中野さんがおもむろに話し始めた。私はミルクティーを飲みながら、中野さんの話を小さなメモに書いてゆく。

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 『私ね、昨日あなたに話しかけられたこと、すっごく嬉しかったの。』と、開口一番中野さんが言った。深夜に医療パトロールに参加する学生はただでさえ少ないが、色々と質問してくる人は殆どいないという。そんな中で、色々と質問してくる私の積極さを気に入ってくれたらしい。

この日も、中野さんはまた色んな話をしてくれた。最初の話題は、キューバに行った時のことだった。『キューバにはね、孤独が無いの。貧しくても、皆厚かましいくらいに関わってくるから。日本は豊かだけど、みんな孤独でしょう?私はキューバの人の温かさが本当に好きだったの。』と語る中野さんの目は輝いていた。彼女は、貧しいけれど助け合う空気や、精神的な豊かさに溢れたキューバに魅入られたそうだ。そして、キューバ社会主義が理想の政治形態だと考えているらしい。私が、「中野さんは、何か政治思想をお持ちですか?」と尋ねると、真っ直ぐに私の目を見て『ええ、私は左翼です。』と即答した。私は政治的な立場云々を議論するつもりは無いが、こうして自分のことを「左翼だ」と堂々と言える彼女は天晴れだと思った。

その他にも、パレスチナキューバでの慣習・文化の話(割礼や婚姻時のこと)や、戦場の話、さらには地元の九州・大分での幼少期のことや、尊敬する母親の話もしてくれた。彼女の母親は野性的で、パワフルで、彼女にとっては神のような存在らしい。彼女曰く、ある日母親は山に数時間入ってから家に戻ると、5匹も大きな蜘蛛を体に這わせたまま、それを気にも留めずに帰宅したそうだ。スマイルゲリラの母は、やはり強烈な人物だったのだろう・・・。

一通り話し終わった後には、『今日は、母のことを話せて良かった。久しぶりに母について話せた。』と言って、目には涙が滲んでいた。もう70代になると、親のことを誰かに話す機会は無いのだろう。親を懐かしんで泣く気持ちは、20代の私にはまだ正直なところ分からない。想像の範囲でしか共感できないからだろうか、母親についての話を聞いていると、少し戸惑いにも似た感情が湧いてきた。そして、その戸惑いの中に、50年という時の永さを感じた。

釜ヶ崎の路上で

中野さんと喫茶店で話し始めて、2時間ほどが過ぎただろうか。私たちは三角公園に戻るために、喫茶店を後にした。路上に出て歩き始めると、中野さんが私の右腕に手を回し、ぴったりと体をくっつけてきた。この人懐っこさを見ていると、彼女が海外でスマイルゲリラと呼ばれた理由が分かった気がした。

しばらく歩いていると、突然中野さんが『あ、月光仮面!!!』と叫んだ。ええ!?何事?と驚いて前を見ると、向こう側から自転車に乗った高齢の男性がやってくる。真冬だというのに、なぜかサングラス(しかもティアドロップだ)をかけ、片方の鼻にはティッシュと思われる白い詰め物をしている。

中野さんは嬉しそうに、『彼ね、月光仮面っていうの。いつもサングラスして、右の鼻に詰め物してるの。鼻血が出てるわけじゃないんだけどね。』と説明してくれた。一体何なんだ、このお爺さんは。

月光仮面と呼ばれる謎のお爺さんは、私たちの傍に自転車で乗り付けてきた。

月光仮面おう!中野さん。明けましておめでとう!それあんたの娘か?

中野さん『そうよ!私の娘!!

月光仮面そっかそっか。じゃあ、またな!!』(そして颯爽と去る。)

・・・・いやいやいや!!!娘じゃないから!!!もし娘なら、一体何歳のときの子なんだ。しかもなんで月光仮面も納得して突っ込まないんだ。そもそも一体誰なんだ。

突然の展開に、何が何だか分からずクラクラし、ツッコミを入れる気力を失った。そんな私をよそに、中野さんは相変わらず上機嫌で腕を絡ませて歩いている。そうして、あれよあれよという間に、三角公園に着いた。

三角公園では、炊き出しの準備が着々と進んでいた。人が溢れる三角公園の真ん中で、私は中野さんに別れを告げた。お互いに名残惜しかったが、また会いましょう、と約束をした。そうして、また握手をした。温かい小さな手だった。

私はそのまま炊き出しの準備を進める学生や、お世話になった方たちに挨拶をしてまわった。もちろん、顔見知りになったおっちゃん達にも。5日前には、全く知り合いなんていなかったのに。この時、越冬闘争が終わった実感はまだ湧かなかった。また明日も来るような気がして、でも少し寂しくて。私は不思議な気持ちのまま釜ヶ崎の街を歩き、京都への帰路についた。

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こうして私の越冬闘争の日々は終わりを告げた。

次回の更新では、越冬闘争を終えての感想を書きたいと思います。次の記事もお楽しみに。