釜ヶ崎と女子大生。

釜ヶ崎と女子大生。

現役女子大学院生が、大阪西成区にあるディープな街「釜ヶ崎」で見聞きしたこと、感じたことを書いてゆきます。

#15. ブログが新聞に掲載されました(ご報告)

2018年が始まってから、早くも一ヶ月が経とうとしている。

凄く久しぶりの更新になりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

昨年の正月には、越冬闘争に連日参加していたのを思い出すと、一年がとても早く感じられる。今年は新潟に帰省し、うず高く積もった雪に覆われた実家で、ひっそりとこの記事を書いている。

まずは、お礼から

すでにご存知の方もいるかもしれないが、昨年6月にこのブログが産経新聞社の記者の目に留まり、私が発信していることを記事にして頂いた。

www.sankei.com

新聞記事を読んで、ブログにたどり着いた人もいるのでは無いだろうか。沢山の人に支えられたブログが、こうして一つの形にしてもらえたのはとても嬉しい。

記事が掲載されてすぐにブログで報告するのは、なんだか浮かれているようで恥ずかしく、ためらっているうちに半年も経ってしまった。今回は報告がてら、少し取材の時のことを振り返りたい。

S記者との初めての顔合わせ

今回の取材を受けたのは、初夏の頃だった。西成区周辺の地域を担当するS記者から、取材したいと直接コメントを頂いたことがきっかけだ。取材に応じるか否かは正直迷ったが、それは担当する記者さん次第だと思ってまずは一度会ってみることにした。

最初の顔合わせの日に現れたのは、熊っぽい大柄な男性記者だった。どんな人なのだろうかと緊張していたが、S記者は決して愛想の良い方では無いものの、その分正直に話をしてくれる方なのだと分かり、安心したのを良く覚えている。それに、私よりは年上だが同世代である分、話も通じそうだなと思い、取材して頂くことにした。

取材を始めるにあたり、まずはどこまで私自身の素性を新聞に出すのか?という確認から始まった。S記者からは、私の実名や顔写真、所属や年齢などできる限り詳細な情報を載せたいと言われたが、それは全てお断りした。ブログを私個人の売名に利用するつもりは無いし、むしろこだわりの一つが匿名性を高くしておくことだったからだ。

さらに、私は新聞記事に載せるにあたり、上司に最終チェックを受けて印刷に出る前に、可能な範囲でどのような内容になるか教えて欲しいとお願いした。メディアにどう出るのか分からない不安ゆえのお願いだが、S記者は少し考えた後、それも約束してくれた。『分かりました。上司の修正が最後に入ったら、それは訂正できません。それでも良ければ。』とのことだった。私としては、S記者が誠実に書いてくれたら、それで十分だ。たまに「メディアにインタビューされたけれど、一部を抜き出して違う趣旨で書かれた!!」という声を耳にするが、こうして交渉して事前確認していたら、そういうトラブルも減るのではないかと思う私は、まだまだ甘いのだろうか。

この日、取材の合意をしてインタビューを少し受けた後、後日釜ヶ崎で記事に載せる写真を撮影することを約束した。

いざ、釜ヶ崎での取材へ

取材当日、晴れ渡った夏色の空の下、S記者がのっそりと釜ヶ崎に現れた。もうすっかり暑いというのに、なぜかS記者は全身スーツに身を包んでいる。『まぁ、一応スーツは着た方が良いかと思って・・・。』と言って玉のような汗を流すS記者と並んで釜ヶ崎を歩くのは、なんだか新鮮な気持ちになった。

f:id:kamakyou:20180112215407j:plain

写真:釜ヶ崎を歩くS記者

しばらく一緒に歩き、記事に使う写真を撮る場所を探したのだが、おっちゃんと私が話している画が欲しいと言われたので、話しかけやすそうなおっちゃんに話しかけることにした。ふらふら歩いていると、四角公園の近くの建物前に居座り、道行く人に話しかけているおっちゃんを発見した。まさに渡りに船とはこのこと。このオープンさの塊のおっちゃんに話しかけたところ、一瞬で撮影・掲載許可をくれた。ありがとう、助かるよおっちゃん。

しかし、おっちゃんの隣に座ると、開口一番に

おっちゃん:『お姉ちゃん知ってるか?グローバルっていうのはなぁ、釜ヶ崎の言葉なんやでぇ!!!

私:「そうなんですか~。(いえ、グローバルは英語です(;´・ω・))」

どうしたらグローバルが釜ヶ崎の言葉になるのか。果たしておっちゃんに外国語という概念はあるのだろうか・・・・。ツッコミどころ満載な発言の数々に、なんとか相づちを打ちつつ、私は「S記者、早く写真撮ってくれ・・・」と心の中で呟いていた。そんな場面もありつつ、この日の撮影とインタビューは無事に終了した。

S記者からは、『越冬闘争からは時間が過ぎているのでタイムリーな記事では無いし、個人情報を明かしていないので匿名性が高い分、記事として大きく出せるかどうかは難しいが、それは記者である自分の力量の問題なので。上司も納得してくれるような記事が書けるよう、できるだけのことはやってみます。また連絡しますね。』と伝えられた。私はS記者が書いてくれる記事にワクワクしつつ、不思議な気持ちで京阪電車に揺られて京都へと戻った。

記事が掲載された後は・・・

初夏の取材が終わってから、しばらくしてからS記者からの連絡があり、実際に新聞に載る日が伝えられた。(それと同時に、産経新聞のネット版にも掲載されることになった。)そして、掲載内容確認のやり取りを行い、数日後の掲載日を待つばかりとなった。

どうなるのかなぁ~と見守っていると、ネット版が出るや否や、googleニュースやyahooニュースにも転載され、あっという間にブログ閲覧数が上がった。(なお、記事にはブログのリンクは貼っていないので、わざわざ皆さん検索してくれたのだろう。)あまり閲覧数にはこだわっていないので、ピーク時の具体的なpv数は忘れてしまった。それから1~2週間くらいは閲覧数が高いままだったが、こうして何か月も放置しているといつの間にか閲覧数は元の状態に戻っていった。

こうして釜ヶ崎のことを書いているブログだからこそ、多少の炎上の可能性は覚悟していた。しかし、炎上は全く無く、むしろ応援してくれる人のコメントが定期的に寄せられるようになった。これは釜ヶ崎という地域がもうあまり注目されなくなってきたからなのか、それとも私の記事がつまらなかったからなのか、はたまた、「釜ヶ崎のことを誠実に書く」という私のブログのモットーゆえ、炎上する要素が無かったのか。その理由は分からない。

余談だが、今回の出来事で一番リアクションがあったのは家族だった。実は釜ヶ崎での活動は親には秘密にしていた(越冬闘争で正月に帰らなかったのも、忙しくて・・・と誤魔化していた)が、折角の機会なので両親に釜ヶ崎に通い、ブログを書いていることを打ち明けた。新潟県民なので最初は「釜ヶ崎??」とピンときていなかったが、すぐにブログの記事を全部読んだそうだ。大学の研究とは全く関係無いことに時間とお金を費やしていることに怒られるかな・・・とヒヤヒヤしていたが、案外怒られず、むしろ「文章表現力があるね」と少し褒めてもらえた。元来あまり褒める方では無いし、安定志向な親だが、こういう活動を受け入れてくれる側面があるんだな・・・と、不思議な気持ちになった。

最初は迷った取材のオファーだったが、結論としては、受けて本当に良かった。今回新聞に掲載されることで、既存の大手メディアの力をひしひしと感じることができた。やはりメディアの影響力や拡散スピードは凄いし、同時に怖くもある。また、人の関心というのも一瞬で過ぎ去ることもよく分かった。私たちは、本当に凄い時代の中を過ごしている。だからこそ、今この記事を読んでくれたリピーター読者の人には、心から感謝したい。関心を持ち続けてくださって、ありがとうございます。

最後に、半年以上の時間が経ってしまったが、このブログの記事をもって改めてS記者に御礼を言いたい。取材中は、年下の私に対して丁寧に話を聞いてくれたし、実はちょっと人生相談にも乗ってもらった。さらに、事前の約束通りに、記事の内容も印刷する前に、可能な限り伝えて貰った。約束をきちんと守ってくれる人で、本当に良かったと思う。数あるブログの中から「釜ヶ崎と女子大生」を見つけて、誠心誠意が伝わる記事を書いていただき、ありがとうございました。

これまでの半年と、これから

上記産経新聞の記事が出ることが決まってから、半年にわたってブログは更新せずにいた。それには3つの理由があって、①お世話になった薬味堂さんの記事(#14. 私が通い続けているカレー屋さんの話 - 釜ヶ崎と女子大生。)を、しばらくトップ記事にしておきたかったから、②私の次の居場所を探すのに時間がかかったから、③書くテーマに悩んでいたから、という理由だ。

 ①の薬味堂さんについてだが、なんとこの数ヶ月の間に、私のブログを見て来店してくださった方が何人かいるそうなのだ!読者さん、ありがとうございます!!!ちょっとでも宣伝に貢献できたみたいで、私はとても嬉しい。

②私の今後については、後日書こうと思います。

③ブログを書くにあたり、どうでも良いことは書かないようにしている。人に広く知ってほしい、その価値があると思うことだけを書いているつもりだ。その分、もちろんテーマにも悩む。

そんな私が、最後に、これだけは書いておきたいことが残っている。それは、釜ヶ崎の介護福祉についてだ。

f:id:kamakyou:20180112221829j:plain

 写真:釜ヶ崎にて、車椅子を押す女性

今の釜ヶ崎を語る上で、これだけは避けては通れない。

次回の更新も、お楽しみに。