【最終話】私が釜ヶ崎から去った理由
このブログを初めて読む人へ
こんにちは、はじめまして。いつも読んでくださっていた方は、お久しぶりです。
このブログを読む人は、きっと何かの縁があって釜ヶ崎に興味を持たれたのでしょう。このブログは、私が大学院生だった2016年11月から、2017年10月頃まで釜ヶ崎に通って、見たり聞いたりしたことをまとめた記録です。
当事の釜ヶ崎の姿を発信したいという気持ちで始めたブログですが、この4年間で15万人近くの人が見てくれました。本当に有難いことです。
あれから月日が経ち、私は大学院を修了し、社会人になりました。そして、2020年になった今は、もう以前のように釜ヶ崎には通っていません。
もう"大学生"ではないのだから、そして釜ヶ崎には通わなくなったのだから、ちゃんとブログを一区切りつけなければ・・・と長年思っていました。今日が、その時です。
私が釜ヶ崎から去った日
初めに伝えたいことは、私が釜ヶ崎から去った理由は、釜ヶ崎が嫌になったからでも、飽きたからでもありません。自分の醜い自尊心をまざまざと自覚し、「釜ヶ崎で生きていく」ことが自分にはできないと思ったからです。
きっかけは、あるアルバイトを始めたこと
その転機は、2017年6月に訪れました。越冬闘争に5日間密着取材し、その後もどっぷりと釜ヶ崎に浸っていた頃、経済的な事情からアルバイトをする必要が出てきました。
釜ヶ崎の知人に相談したところ、釜ヶ崎にあるNPO法人でアルバイトできるとの伝手がすぐに得られ「取材しつつアルバイトできるなら」と、すぐに応募・採用されました。
そのNPO法人は、釜ヶ崎では最も有名なNPOの一つで、ホームレスや生活保護受給者の就労支援を行っている組織です。そこで、就労支援の一つとして内職を行っているチームの現場監督・および作業補助を行うのが、今回のアルバイト内容でした。
アルバイト初日
アルバイト初日、内職の作業場に行くと3人の利用者と、先輩職員が待っていました。NPO法人の本部の敷地内に建てられた作業場は、想像していたよりも大きく、小学校の体育館の半分ほどの面積がありました。
先輩職員から説明を受けた内職の仕事内容は、2m近くある大きな厚手のクラフト紙を何度か折り曲げて、セロハンテープを貼って舟形に成型するというもの。芝生を植える園芸業者が利用する、土嚢袋のようなものだそうです。
当時の内部写真はありませんが、成果物のイメージとしては以下が近いです。かなり大きく、重い厚紙を折り畳み、まとめて束にして納品するのです。
まず実際に仕事ができるよう数回教えて貰えれば、折り畳み方やセロハンテープを貼る位置を覚えるのは簡単でした。至極単純な作業で、時間に追われることも無く、ただ繰り返せば時給が発生すると思えば、非常に楽なアルバイトです。「楽勝だ!やっていける!」と、初日は何の疑いも無く思っていました。
葛藤の時
アルバイト2日目のこと。作業場に到着すると、そこには前回いなかった新たな利用者が1名いました。40才前後と思われる、Kさんという男性でした。猫背で瘦せていて無口で、正直年齢はいくつかよく分かりません。
事務所で仕事を始める準備をしていると、先輩職員から手招きして呼ばれ、以下のように伝えられました。
『Kさんは、以前薬物中毒になって以来、手先が上手く動きません。今は生活保護を受けて暮らしているので生きていけますが、社会に少しでも関わるという意味で、ここで内職の仕事をしています。みんな内職の出来高を歩合制で貰っていますが、Kさんは少ししか作業が出来ないので、貰えるお金は一日あたり数百円程度です。だから、お金を稼ぐという目的ではなく、少しでも社会との繋がりを得るために来ていると理解してください。
そこで今日はアルバイトとして、Kさんのサポートをしてもらおうと思います。Kさんはクラフト紙を折り畳むことができないので、ただ"セロハンテープを切って、貼る"という作業しかできません。そのセロハンテープを貼る作業の前段階である、クラフト紙を折り畳む作業を全部やってあげて欲しいんです。』
私は元シャブ中だったというKさんの過去に驚きつつも、自分のミッションを理解しました。そして、目も合わせてくれないKさんの傍に立ち、彼がセロハンテープを貼れるように、クラフト紙を黙々と折り始めました。
折り始めてから15分。
折り始めてから30分。
折り始めてから1時間。
折り始めてから1時間30分。
折り始めてから2時間。
折り始めてから3時間。
ふと、黙々と作業を進めているうちに、辛い気持ちになっている自分に気づきました。
「どうして、自分は今こんなことしてるんだろう。20代半ばっていう人生で一番重要な時間に、どうして私はたった一人の元薬物中毒者のために肉体労働をしているんだろう。同世代の他の人は、この時間にも新しい仕事をしたり、研究したりして自分を磨いているはずなのに。私はもっともっと頭を使う、複雑な仕事だってできるのに。こんな時間の使い方をしてたら、人生を棒に振ってしまうんじゃないか。
でも、Kさんという一人の人間が社会復帰しようとしている手助けを、どうして私は心の底から喜んで奉仕できないんだろう。お給料だって貰っている立場なのに。私は結局誰かのために自己犠牲なんてできない、自分が可愛いだけの人間なんじゃないか。そもそも自己犠牲だって思っている時点で、とんでもない偽善者じゃないか。」
そうハッキリと思ってしまった瞬間に、目の前の作業を続けるのが物凄く辛くなりました。同年代と比べた時の焦り、不安、そして自分がいかに偽善者か、心が狭いか・・・そうした自責の念で、頭が一杯になり、涙が溢れてきました。そして、今自分をこんなにも乱している張本人のKさんに目をやると、やっぱり一言もしゃべらず、猫背のまま、一枚一枚ゆっくりとセロハンテープを貼っているのです。せめて一言でもお礼を言ったり、目を合わせてくれたら少しは報われるのかもしれないのに・・・・。そう思うと、また見返りを求めている自分の浅ましさに気づいて、余計に辛くなりました。
私は結局、何者だったのか
Kさんをサポートする仕事を終え、半ば放心状態で夕方の釜ヶ崎の道を歩いていると、ふと「これが釜ヶ崎で生きるということなんだ」と気付きました。
私は京都から釜ヶ崎に通い、そこの出来事を"周辺"から眺めて記事を書くだけの人間でした。何か出来事の周辺から、あくまで"よそ者"として見て・感じて・書く。それがジャーナリズムの本質の一つであり、限界なのかもしれません。
そして、それは今日のような「その地域で働いて、お金をもらって、生活する」ということとは全く次元の違う話だと気付きました。私は、釜ヶ崎で(生活費のために)アルバイトを始めることで、その境界を超え、周辺からその内部へと、明確に片足を踏み入れたのです。しかし、それに気付くと同時に、「私は釜ヶ崎で生活し、生きていく覚悟なんて無い。私はやっぱり周辺人のままで、釜ヶ崎と関わっていく方が良さそうだ。」と、そう直観的に思ったのです。
慣れは怖い
Kさんとの出会いを通じて、非常に葛藤し、アルバイトを辞めようと思っていた私でしたが「いくらなんでもアルバイト2日目で辞めるなんて短すぎるし、無責任じゃないか?」と思い、そのまま3日目、4日目・・・と出勤し続けました。
しかし、4日目の出勤時に「おはようございます!今日は○○さんの利用なんですね、了解です。」と、自然に仕事を始める自分がいました。あんなに2日目に葛藤していたのにも関わらず、です。
この時、自分がこの状況に慣れ始めていることに気づき、ゾッとしました。どんなに当初は疑問を持っていても、それが繰り返されることによって順応し、疑問を持たなくなる・・・・。思考停止が起こるプロセスとしてよく耳にする状況ですが、それが自分にも起こりつつあることに驚きました。
「この環境に慣れて、何も感じず、葛藤も無くなったら、それこそいる意味が無い。むしろ私はここにいちゃいけない。」
そう思って、アルバイトを4日目にして辞めることにしました。焦りと危機感から、ほとんど衝動的に判断したと思います。職場には、体力的に労働作業するのがキツイから・・・という理由で伝えました。4日で辞めたことは、当時の職員さんたちには申し訳ないと思っていますが、今はその判断をして良かったと思っています。
そして、私は釜ヶ崎を後にした
釜ヶ崎でのわずか4日間でのアルバイトを終えた私は、以前とは比べものにならないくらい、その地域における自分の立ち位置(つまりは"よそ者"ということ)を自覚するようになりました。そして、就職活動やら研究やらが忙しくなってきた私は、夏以降から自然と釜ヶ崎から足が遠のくようになりました。釜ヶ崎に以前のように足繫く通い、色々な人と出会って、その地域を理解する・・・ということを、心のどこかで避けるようになっていたのかもしれません。
そして、このアルバイトのことを書けないまま就職し、社会人として働き始めました。実はこのブログはちゃんと完結させなければならない、という気持ちがずっと心に引っかかっていたのですが、ようやく今回重い腰を上げて筆を取りました。だから、これが私のブログの最後の記事になります。
最後に
私は釜ヶ崎で沢山の貴重な出会いに恵まれ、良くして頂きました。本当に関わった人には感謝してもし足りません。また、ブログを見てくださった全ての人、そして新聞に取り上げてくださった新聞記者さんにも感謝しています。
ブログで発信活動を続けていた私ですが、最後の最後に、「釜ヶ崎で生きるとはどういうことか」を、少しだけ理解することができたように思います。自分の醜い心中を書くことには躊躇いもありましたが、少しでも誰かの心に届いたら嬉しいです。
私の釜ヶ崎での経験が、いつか誰かが同じように釜ヶ崎に関わるときの参考になればと思うので、このブログは閉鎖せず、残したままにしておきます。
これまでブログ執筆や活動で関わってくださった皆さん、そしてこの長い記事を最後まで読んでくれた読者の方、本当にありがとうございました。
2020.5.24
かまきょう
#17. 釜ヶ崎と介護バブル
久しぶりの更新です。こんなに時間があいたのに読み続けてくれる皆さん、本当にありがとうございます。以前から釜ヶ崎に関して、これだけは書いておきたい!というテーマがあるので、今回はそれについて取り上げます。
釜ヶ崎と介護
(筆者撮影。釜ヶ崎の交差点にて)
今の釜ヶ崎に関して避けて通れないテーマ、それは釜ヶ崎の介護福祉について。
釜ヶ崎に入ってしばらくしてから耳にしたのが、『今は、介護バブルやからなぁ。』という知人の発言だった。介護バブル??と最初は思っていたが、実際に釜ヶ崎を歩いていて目立つのは、介護事業所の圧倒的な多さ。そして、車椅子で移動する男性と、その車椅子を押して歩く人たちの姿だ。釜ヶ崎は高齢の独身男性の街なので、介護事業が盛んなのも納得だ。
そして上記の知人は、続けてこう言っていた。『釜ヶ崎の介護バブルは、30年後の日本の姿を先取りしてるんやで。』
確かに、たまたま今は釜ヶ崎の高齢者の割合が多いだけで、これは未来の日本の各地に起こりうる状況なのだ。コンビニよりも圧倒的に多い介護事業所の数々は、今は異様なものとして目に映るが、いつかこれが日本の普通の光景になるのだろう。この街が少し特殊な環境とはいえ、未来の日本を表していると思うと、俄然知りたくなった。
釜ヶ崎の介護事情
さて、釜ヶ崎の介護福祉事業者が多いとはいうものの、実際どのくらいあるのだろうか。調べてみたが、あいりん地区(≒釜ヶ崎)内の介護事業者数は分からなかった。だが、2017年12月時点の西成区の介護事業者数以下の通りだ。
※出典:大阪府 大阪市西成区|地域医療情報システム(日本医師会)
実に、介護施設数は全国平均の2.13倍。
#2 西成・釜ヶ崎・あいりん地区、何が違うのか? - 釜ヶ崎と女子大生。
)これが釜ヶ崎の現状だと断定はできない。釜ヶ崎に居住している高齢者でも、釜ヶ崎以外の西成区の地域まで介護サービスを受けに行っている可能性もある。だが、西成区全体の介護事業者数を引き上げている理由の一端は、釜ヶ崎における圧倒的な高齢者率の高さだろう。
つまり、釜ヶ崎だけで見れば、介護施設数は平均の2倍どころではなく、実際は3倍以上だと考えられる。
それでは、釜ヶ崎の介護施設で働いている人はどんな風に感じているのだろうか。どんな景色が見えているのだろうか。この記事を書くにあたり、どうしても会って話を聞いてみたい。そんな気持ちから、今回は知人にお願いして、釜ヶ崎の介護施設で実際に働いている女性を紹介してもらった。
釜ヶ崎の介護福祉士へインタビュー
知人の紹介でお会いしたのは、釜ヶ崎で介護福祉士として働くトモコさん(仮)だ。この記事は6月に書いているが、実際お会いしたのは昨年12月のことだ。(遅くなってごめんなさい・・・。)冬の寒さが厳しい夜に、太子の交差点で待ち合わせをした。
『おー!初めましてー!!』と言って交差点に現れたのは、自転車に乗った活発そうな女性。30代前半らしいが、見た目は20代に見えるくらいで、はつらつと明るい雰囲気の人だ。
二人で夕ご飯を食べることにしていたので、近くにあった大手チェーンの中華料理屋に入った。食事が出てくるのを待ちながら、彼女の話を聞きはじめた。
なぜ、釜ヶ崎で介護の仕事を始めたのか
そもそも、どうして彼女はここで働いているのだろうか。
実は、彼女は元々は、看護師として病院で働いていたらしい。また、彼女は釜ヶ崎の出身で、父親が『これからの釜ヶ崎は、介護の時代だ!』と言い出したことがきっかけで家族会議を開き、家族総出で介護事業所を立ち上げたそうだ。経験者はおらず、親も兄妹も彼女自身も、一から介護福祉の勉強を始めたらしい。今は家族で、訪問介護の事業を行っている。
看護師を辞めて、家族で介護事業所を始めるという決断をしたことは凄いし、正直びっくりした。驚く私に対して、彼女は『だって、釜ヶ崎で生まれて、この街が好きだもん。友達も多いから、他の場所に行きたいと思わないし、ここで家族と働くことに決めたの。』と、笑って言った。
釜ヶ崎の介護のリアル
はつらつと元気があって笑顔の絶えないトモコさんは、やはり利用者のおっちゃん達から絶大な人気を誇るようだ。
私:トモコさん人気ありそうですよね~。
トモコさん:いや、自分で言うのもアレやけど、めっちゃ人気あるで(笑)
私:そりゃそうですよね・・・すごく納得です(笑) 介護施設の利用者さんって、どんな方が多いんですか?
トモコさん:ん~・・昔から釜ヶ崎にいて、日雇いやってたようないわゆる”おっちゃん”って人はほとんどいないよ。利用者さんの多くは、生活保護が欲しくて他の場所から釜ヶ崎にやってきた人たちやなぁ。
私:そうなんですか・・・そんなに生活保護の利用者さんが多いんですね。
トモコさん:いや、めっちゃ多いで。むしろ、介護施設としては、生活保護の人を入れた方が儲かるねん。生活保護の人を受け入れると、自治体から一人あたり月40万くらい費用が支給されるから。でも、年金受給者だと、個人の3割負担だから事務所の利益は少なくなるわけ。
私:え、じゃあ生活保護の人を受け入れようってなりますね。
トモコさん:そうそう。だから釜ヶ崎では元々ちゃんと働いてて、今は年金生活している人がもちろんいるけど、生活保護の人に比べると損してて、可哀想やで。
生活保護のおっちゃんたちはな、表立って言わないけど、生活保護費のこと「給料」って呼んでるねん。だから生活保護費が振り込まれる日を「給料日」って言うしな。でも、生活保護費は家賃以外はすぐにパチンコとか競馬とかに消えてしまうから、すぐにまたおっちゃんたちスッカラカンになるねん。だから、うちの事業所はやってないけど、他の介護事業所さんでは『2万円現金ですぐにお渡しするので、うちの利用者になりませんか?』って呼び込みしてる所多いで。
私:えぇ!!まぁ2万渡して、毎月40万自治体から貰えるなら安いですよね・・・。その2万で生きていけるか分かりませんが。
トモコさん:そうねん。でも、その目先の2万円に応じる人が多いねん。もちろんその2万もすぐに使い切ってしまうけれど、その人たちは翌月まで日常に必要なお金をどうやって得ているのかは私も分からん。
釜ヶ崎に住むための最低限の義務
私:でも、おっちゃんたち、家賃だけはちゃんと払うんですね(笑)
トモコさん:そう、「家賃を払う」ってことが、釜ヶ崎に住み続ける本当の最低義務やねん。追い出されたら生活保護も止まるしな。うちらも利用者さんがちゃんと大家さんに家賃払ってるか確認してるで。
私:なるほど。訪問介護だと、大家さんにも顔覚えてもらわなきゃですしね。
トモコさん:そうねん。大家さんめっちゃ大事やで。大きい介護事務所だと、大家さんが「最近冷蔵庫が壊れたねん」とか言ってたら、冷蔵庫プレゼントしたりする。
私:本当ですか!なんでですか?
トモコさん:大家さんと仲良くしてたら、そこに入ってきた生活保護の人を紹介してもらえるから。だから大家さんによくしてる事務所は沢山あるで。でもな、ここらへんの最大手の介護事務所とかになるとな、ビル一棟買ってるねん。だから、生活保護の人を居住者として入れて、家賃収入+介護費のW収入してる。
私:そういうビジネスモデルなんですね・・・・介護事務所がそんな稼ぎ方してるって知りませんでした。
演技するおっちゃん
トモコさん:いや、本当に皆いろいろ考えてるで。それは介護施設だけじゃなくて、おっちゃんたちもな。要介護になるべく演技してたりするしな(笑)
私:どういうことですか?
トモコさん:そもそも、介護施設に入るには、要介護か要支援かに認定されなきゃいけないけど、要支援よりは要介護の方がケアする負担が重いから、要介護者の方が自治体からの支給金額は高めに設定されてる。だから、介護施設としては要介護の人を入れた方が儲かるねん。で、おっちゃんとしても、要介護の方が受けれるサービスは多くなる。
さらにな、ケアマネさん*としても、要支援より要介護の方が良いねん。要支援だと、ケアプランっていう計画書を作る時にも地域包括支援センターへの報告が必要だけど、要介護なら業者との直接のやり取りだけで済むから楽ねん。
だから、おっちゃんたちは要支援レベルの人で、普段動けてる人も、ケアマネさんがチェックに来たら「手すりに捕まらないと起き上がれないんですわ~」とか言って、起き上がれない演技をする。要介護に認定されるためにな。でも、そうやっておっちゃんが演技して要介護に認定された方が、おっちゃんにとっても、介護施設にとっても、ケアマネさんにとっても都合が良い。
私:なるほど・・・凄いですね・・・。
*ケアマネ・・・ケアマネージャー(介護支援専門員)の略。介護施設・医療機関との調整などを行う専門職のこと。
インタビューを終えて
トモコさんは『生活保護も、介護も、年金も、もっと良くしていかなきゃいけない制度は沢山あるよ。でも、私はこの町が好きだから、これからもここで仕事してゆくし、頑張るよ。お互い頑張ろうね。』と言って、夜の釜ヶ崎の街に消えていった。
トモコさんからの話を一通り聞き終えて、自分の想像以上に介護ビジネスが栄えていること、それを取り巻く人々の思惑が渦巻いていることに衝撃を受けた。
また、生活保護費をもらう日をおっちゃんたちが「給料日」と呼んでいることにもショックを受けたが、他方で、これまで私が釜ヶ崎で出会ったおっちゃんの中には、生活保護費でギャンブルをすることもなく、しっかり貯金して生活してゆこうとする人がいたのも事実だ。私が見聞きしただけでは到底把握できない程、本当に色々な人がこの街に暮らしている。
トモコさんの去ってゆく姿を見送って、私も帰路についた。歩きながら、いつも見慣れている釜ヶ崎の街のビルの一つ一つの窓を眺めてゆく。その窓の明かりの下には、一体どれだけの人がいるのだろうか。明かりが灯る部屋の一つ一つに、誰かが住んでいて、それぞれ別の人生を歩んでいる・・・そんな風に電灯の光に想いを馳せながら、その日は釜ヶ崎を後にした。